2016年06月09日
ただその作品に(笑)いを含ませるのではなく、(笑)いこそを作品のテーマとして創りつづけている
アーティスト達もいる。
現代美術二等兵がそうだ。
現代美術二等兵は籠谷シェーン、ふじわらかつひとの2名からなる現代アートユニットで、
もう20年以上活動している。
その作品テーマを「笑い」に徹底しているが、僕に言わせればそれはあきらかに「笑い」ではなく
「(笑)い」だ。
たとえば下記の作品。
これは創られた当時の女子たちにとっておそらく無敵の存在だったと思われる蛯原友里、
通称えびちゃんをフィーしたものである。
エビをカニに変えて、本物のカニの甲羅を顔に見立てて、それらしいウィッグをつけただけの雑な作品。
「キミたちにとってはカリスマだかなんだか知らんが、所詮"エビ"でしょ」という裏メッセージ。
この作品は当然のことながら、元の「えびちゃん」を知らない鑑賞者との間には(笑)いが成立しない。
ましてや、日本の文化的背景、文脈に全く触れていない海外の人が、この作品をどこかのギャラリーで
観た場合は、別の解釈が生まれて、「オー!ニホンノアートスバラシ!」ということになるかも知れない。
とにかく、この作品は「えびちゃん」を知っていること前提で観られることが条件になっている。
「えびちゃん」の愛称で女子たちの絶対的存在になっている人物を、カニの甲羅で雑に扱うこと。
この作品の暴力性こそが「笑い」ではなく「(笑)い」である。
そして表面的には「(笑)い」ではなく「笑い」とすることでその暴力性をオブラートしているところが
更に悪質で、無敵=フィーである。
この作品の暴力性に気づかないままただ「エビじゃなくてカニかー」と笑うだけの層も確実にいる
はずで、現代美術二等兵は意識的にその層に向けて(ときに暴力的な)作品を創りつづけている。
さて、そろそろ種明かしをしよう。
現代美術二等兵の籠谷シェーン氏は、実は僕が小学生の頃からの同級生で、ある日、
「オレ、ずっと考えてるんやけど、あの"フィー"に勝てる言葉ないかな?」
という僕の人生にとって衝撃的な難題を投げかけた、天才少年Kである。
彼はこんなかたちでフィーに勝てる言葉を探し続けていたんだ。
アーティスト達もいる。
現代美術二等兵がそうだ。
現代美術二等兵は籠谷シェーン、ふじわらかつひとの2名からなる現代アートユニットで、
もう20年以上活動している。
その作品テーマを「笑い」に徹底しているが、僕に言わせればそれはあきらかに「笑い」ではなく
「(笑)い」だ。
たとえば下記の作品。
【カニちゃん】
制作者:籠谷シェーン
通称えびちゃんをフィーしたものである。
エビをカニに変えて、本物のカニの甲羅を顔に見立てて、それらしいウィッグをつけただけの雑な作品。
「キミたちにとってはカリスマだかなんだか知らんが、所詮"エビ"でしょ」という裏メッセージ。
この作品は当然のことながら、元の「えびちゃん」を知らない鑑賞者との間には(笑)いが成立しない。
ましてや、日本の文化的背景、文脈に全く触れていない海外の人が、この作品をどこかのギャラリーで
観た場合は、別の解釈が生まれて、「オー!ニホンノアートスバラシ!」ということになるかも知れない。
とにかく、この作品は「えびちゃん」を知っていること前提で観られることが条件になっている。
「えびちゃん」の愛称で女子たちの絶対的存在になっている人物を、カニの甲羅で雑に扱うこと。
この作品の暴力性こそが「笑い」ではなく「(笑)い」である。
そして表面的には「(笑)い」ではなく「笑い」とすることでその暴力性をオブラートしているところが
更に悪質で、無敵=フィーである。
この作品の暴力性に気づかないままただ「エビじゃなくてカニかー」と笑うだけの層も確実にいる
はずで、現代美術二等兵は意識的にその層に向けて(ときに暴力的な)作品を創りつづけている。
さて、そろそろ種明かしをしよう。
現代美術二等兵の籠谷シェーン氏は、実は僕が小学生の頃からの同級生で、ある日、
「オレ、ずっと考えてるんやけど、あの"フィー"に勝てる言葉ないかな?」
という僕の人生にとって衝撃的な難題を投げかけた、天才少年Kである。
彼はこんなかたちでフィーに勝てる言葉を探し続けていたんだ。
2016年06月08日
もう昔の話になってしまうのかも知れないが、やっぱりむてきんぐは無敵だ。
まず、肩書きが「狂言師」。
悪徳な架空請求業者に電話をしておちょくる様をYouTube等で公開している。
とぼけた声で、九州訛りで、絶妙なおちょくりをする。
当然相手はヤの人なわけで、最初は丁寧な対応をよそおっているが、そのうち凄んでくるようになる。
おそらく、マニュアルにも「そのうち凄む」とでも書いてあるのだろう。
むてきんぐは無敵なだけに、そんな凄みには負けない。
そこには常に(笑)いがある。
とぼけた声も九州訛りも(笑)いである。
相手が凄みすぎて声が裏返ったときは、狂言風に相手が言ったことをそのまま繰り返す。
だから狂言師(笑)。
ただひとつ気になる点は、、、
僕は「誰もが悪であるという人をみんなで叩いて笑いものにする」という行為が大嫌いだ。
最近では舛添の公私混同問題。小保方。古くは野々村議員、姉歯、ホリエモン、、、
これらの人を叩いても、みんなが「そうだ!そうだ!やっちまえ!」と拍手喝采する中での公開処刑。
これはプロのお笑い(「お(笑)い」ではないことがほとんど)でも、「風刺」という形でやったりすることがある。
僕はそういうのを気持ち悪い、と思ってしまう。
叩く側からすれば、誰からも反撃が来ないことが分かったうえでの「許された暴力」。
むてきんぐがやっていた架空請求業者のおちょくり電話はそれにならないだろうか?
ずっとその疑問が残ったまま、ぼくはむてきんぐのおちょくり電話を聴きまくったのだが、
いつも感じる「気持ち悪さ」がなかったのはなぜなんだろう?とずっと考えている。
「そこに笑いがあるから」というのであれば、プロのお笑いでもそうであるはず。
だが、プロのお笑いの人が野々村議員のモノマネなどをしているのを観るのは気分が悪い。
おもしろくない。
それは「(笑)い」ではないからかもしれない。
むてきんぐにそういうものを感じず、ただ面白い、と思えるのはなぜなんだろう?とずっと考えている。
少なくとも、むてきんぐの架空請求業者への電話シリーズは(笑)いであり、芸である。
そしてむてきんぐはやっぱり無敵だ。
2016年06月07日
高い建物から街を見下ろすことは顕微鏡を覗くことに似ている。
その建物が高ければ高いほど、街の音が遠くに聞こえ、遮断された窓の場合は、街の音は
完全に聞こえなくなる。
街を行き交う人々が小さく見えるが、そこに生活感はなく、ただの「動くもの」としか見えない。
人も、車も、すべてのものが厚みを失った2Dの世界になる。厚みを失った2Dのアジア。
顕微鏡で覗く世界も同様。
音もなく、厚みもなく、リアリティからは遠くにある世界。顕微鏡の中の小アジア。
本来、厚みを持つはずの微生物は、僕たちの認識としてはいつも2Dとして考えられる。
平面絵画は3Dの世界を2Dに閉じ込めたものである、と考えることもできる。
特に西洋絵画では、遠近法という技術によって、古くからVR(バーチャル・リアリティ:仮想現実)が
行われてきた。
一方、初期の日本画は、輪郭を線で描き、遠近法を持たない、と言われる。
マンガは日本画の系譜の延長上にある。
3Dであるはずのものを2Dで描くということ。
遠近法によって肉眼で見えるままに描こうとしなくても、VRのヘンテコなメガネをかけなくても、
そこにリアリティーを感じる、という鑑賞者の力。
この力こそが人間のリアリティーである。
そして、2Dで描かれた絵は、線画(=ワイヤーフレーム)は、観る者にそこにリアリティーを感じるよう
努力することを強いる、逆育てゲーにほかならない。
その建物が高ければ高いほど、街の音が遠くに聞こえ、遮断された窓の場合は、街の音は
完全に聞こえなくなる。
街を行き交う人々が小さく見えるが、そこに生活感はなく、ただの「動くもの」としか見えない。
人も、車も、すべてのものが厚みを失った2Dの世界になる。厚みを失った2Dのアジア。
顕微鏡で覗く世界も同様。
音もなく、厚みもなく、リアリティからは遠くにある世界。顕微鏡の中の小アジア。
本来、厚みを持つはずの微生物は、僕たちの認識としてはいつも2Dとして考えられる。
平面絵画は3Dの世界を2Dに閉じ込めたものである、と考えることもできる。
特に西洋絵画では、遠近法という技術によって、古くからVR(バーチャル・リアリティ:仮想現実)が
行われてきた。
一方、初期の日本画は、輪郭を線で描き、遠近法を持たない、と言われる。
マンガは日本画の系譜の延長上にある。
3Dであるはずのものを2Dで描くということ。
遠近法によって肉眼で見えるままに描こうとしなくても、VRのヘンテコなメガネをかけなくても、
そこにリアリティーを感じる、という鑑賞者の力。
この力こそが人間のリアリティーである。
そして、2Dで描かれた絵は、線画(=ワイヤーフレーム)は、観る者にそこにリアリティーを感じるよう
努力することを強いる、逆育てゲーにほかならない。