2016年08月27日
ダイバーシティ(多様性)はアジアにとって重要
最近「ダイバーシティ(多様性)」という言葉をよく聞くようになった。
大手企業では「我社は積極的にダイバーシティに取り組み、様々な人種、身体的障害、性的嗜好性を持った社員にも柔軟に対応する職場環境を目指しています」などと言う。
ダイバーシティとは大きく「生物的多様性」と「社会的多様性」に分けられる。
大手企業では「我社は積極的にダイバーシティに取り組み、様々な人種、身体的障害、性的嗜好性を持った社員にも柔軟に対応する職場環境を目指しています」などと言う。
ダイバーシティとは大きく「生物的多様性」と「社会的多様性」に分けられる。
生物的多様性とは、種が画一的なものに収束していくのではなく、様々な亜種に枝分かれして進化していくことや、個体ごとに個性を持つようなことを指す。
環境などの外的要因の変化への適応が画一的であれば、種が全滅する危険性を持っている。そのためのリスク分散になる、というのが生物的多様性の最大のメリットのひとつである。
これは投資における分散投資に似ている。
人工生命を人工生態系に投入し、進化のシミュレーションをおこなう際、 最初に投入する個体数を非常に少なくしたり、あるいは個体数を非常に少ない数以下となるように制限した場合、ひとつの種に収束してしまう、ということがよくある。
同族種どうしの近親交配が繰り返されることによって、遺伝子が持つすべてのパラメータ値がまったく同じものになるように収束していくのである。
この状態はダイバーシティとは反対の状態である。
人工生命では、遺伝的アルゴリズムで交配する際に、確率的にビットを反転することで突然変異を起こす、ということをする。
これにより、ある種として収束しかかっているものに揺さぶりをかけ、種の中でさらに枝分かれすることを狙ったりするのであるが、一度収束してしまったものに突然変異で揺さぶりをかけたとしても、そのゆらぎはふたたび収束する方向に向かうことになる。
このシミュレーションに見られるものを実世界で考えてみるとどういうことになるだろうか?
生物的には、近親交配を繰り返すことによって、個体が劣化していくことが挙げられる。
これは両親が共通の劣性遺伝子を持つ確率が高くなるため、それが繰り返されることで劣性遺伝が起こる、ということが原因である。
つまり生態系に含まれる個体数はできるだけ多いことが望ましく、それによってダイバーシティが保たれ、近親交配が起こる確率を下げることができる、ということである。
では社会的にはどうだろうか?
社会的に「ダイバーシティ」という時には、それを「マイノリティーの人権も守られる社会」という文脈で語られる場合と、文化そのものが多様性を持つことを指す場合がある。
ここでの後者はグローバリゼーションの反対の概念である。
世界のあちこちに人種のるつぼとなった都市があるが、そこにある様々なマイノリティの人種が持つ独特の文化が人種のるつぼの中で希釈されることなくその個性を維持するためには、そこでコロニーが作られる必要がある。それはたとえば世界中の大きな都市に必ず見られる「チャイナタウン」であったり、「◯◯人街」であったりする。
あるいは物理的に「◯◯人街」に自閉することなく、マジョリティと共存していくためには、そこにはマジョリティ側の理解が必要である。
それが最近「ダイバーシティ」という言葉が聞かれるようになった理由である。
「ダイバーシティ」という言葉の流行(?)は、マジョリティ側がマイノリティを見下した上での偽善的なリベラル運動などではなく、そこにはマジョリティにとっても大きなメリットがある。それは生物的なダイバーシティに倣えばよい。
つまり、「多様化することによってリスクを分散できる」ということである。
かつてある国際政治学者が「日本は今後、移民をもっと広く受け入れたほうがいい」と言っていたことがある。
それは今から20年ほど前のことなので、今の日本の状況とは大きく異なる背景ではあったし、実際に移民政策が取られたわけではないが、20年経った今になってみれば、ほぼその学者が言っていたとおりのような風景になっている。しかも制度によってではなく、自然都市が発生・進化するようなプロセスによって。
それはその国際政治学者が、日本の文化が多様化することによるメリットを言いたかったのかも知れないが、その時、彼が言っていた「移民をもっと広く受け入れたほうがいい」理由としての彼の説明はもっと分かりやすかった。
「そのほうがおもしろいから」
ある一定の規模を持った集団、たとえば巨大都市に住む人間が、画一的であることは、以上に書いたリスク分散の観点からあまり安全なものであるとは言えない。
だが、それをもっとわかりやすく言うと、「いろんな種類の人が共存している社会のほうが”おもしろい”」ということである。
そして、いろんな種類のおもしろい人やその人々が起こす現象がアジアを形成していく。
ダイバーシティはアジアにとって重要なものである。
環境などの外的要因の変化への適応が画一的であれば、種が全滅する危険性を持っている。そのためのリスク分散になる、というのが生物的多様性の最大のメリットのひとつである。
これは投資における分散投資に似ている。
人工生命を人工生態系に投入し、進化のシミュレーションをおこなう際、 最初に投入する個体数を非常に少なくしたり、あるいは個体数を非常に少ない数以下となるように制限した場合、ひとつの種に収束してしまう、ということがよくある。
同族種どうしの近親交配が繰り返されることによって、遺伝子が持つすべてのパラメータ値がまったく同じものになるように収束していくのである。
この状態はダイバーシティとは反対の状態である。
人工生命では、遺伝的アルゴリズムで交配する際に、確率的にビットを反転することで突然変異を起こす、ということをする。
これにより、ある種として収束しかかっているものに揺さぶりをかけ、種の中でさらに枝分かれすることを狙ったりするのであるが、一度収束してしまったものに突然変異で揺さぶりをかけたとしても、そのゆらぎはふたたび収束する方向に向かうことになる。
このシミュレーションに見られるものを実世界で考えてみるとどういうことになるだろうか?
生物的には、近親交配を繰り返すことによって、個体が劣化していくことが挙げられる。
これは両親が共通の劣性遺伝子を持つ確率が高くなるため、それが繰り返されることで劣性遺伝が起こる、ということが原因である。
つまり生態系に含まれる個体数はできるだけ多いことが望ましく、それによってダイバーシティが保たれ、近親交配が起こる確率を下げることができる、ということである。
では社会的にはどうだろうか?
社会的に「ダイバーシティ」という時には、それを「マイノリティーの人権も守られる社会」という文脈で語られる場合と、文化そのものが多様性を持つことを指す場合がある。
ここでの後者はグローバリゼーションの反対の概念である。
世界のあちこちに人種のるつぼとなった都市があるが、そこにある様々なマイノリティの人種が持つ独特の文化が人種のるつぼの中で希釈されることなくその個性を維持するためには、そこでコロニーが作られる必要がある。それはたとえば世界中の大きな都市に必ず見られる「チャイナタウン」であったり、「◯◯人街」であったりする。
あるいは物理的に「◯◯人街」に自閉することなく、マジョリティと共存していくためには、そこにはマジョリティ側の理解が必要である。
それが最近「ダイバーシティ」という言葉が聞かれるようになった理由である。
「ダイバーシティ」という言葉の流行(?)は、マジョリティ側がマイノリティを見下した上での偽善的なリベラル運動などではなく、そこにはマジョリティにとっても大きなメリットがある。それは生物的なダイバーシティに倣えばよい。
つまり、「多様化することによってリスクを分散できる」ということである。
かつてある国際政治学者が「日本は今後、移民をもっと広く受け入れたほうがいい」と言っていたことがある。
それは今から20年ほど前のことなので、今の日本の状況とは大きく異なる背景ではあったし、実際に移民政策が取られたわけではないが、20年経った今になってみれば、ほぼその学者が言っていたとおりのような風景になっている。しかも制度によってではなく、自然都市が発生・進化するようなプロセスによって。
それはその国際政治学者が、日本の文化が多様化することによるメリットを言いたかったのかも知れないが、その時、彼が言っていた「移民をもっと広く受け入れたほうがいい」理由としての彼の説明はもっと分かりやすかった。
「そのほうがおもしろいから」
ある一定の規模を持った集団、たとえば巨大都市に住む人間が、画一的であることは、以上に書いたリスク分散の観点からあまり安全なものであるとは言えない。
だが、それをもっとわかりやすく言うと、「いろんな種類の人が共存している社会のほうが”おもしろい”」ということである。
そして、いろんな種類のおもしろい人やその人々が起こす現象がアジアを形成していく。
ダイバーシティはアジアにとって重要なものである。