ニューラルネットの層とメタレベルの問題つっかえ棒

2016年10月20日

ハリボテ

ものを創るとき、それが他人に見せるためのものなのか、自分を高めるためのものなのかによって、出来上がりは同じに見えても、その作品の意味は大きく異なる。

具体的には、、、たとえば3D空間を描くプログラミングの例で言えば、その3D空間の中で遠くに見える背景を細かく作りこむのか、遠くに見えるものはそのプログラムの本質に関係ない、ということで画像を貼り付けて、遠くの景色に見えるようにするのか、ということがよくある。

プログラムの本質に関係ないので、効率化のために(=高速化のために)処理を省けるところは省く、という考え方は正しい。車のプロモーションのためのCG動画で、遠くにある木の葉っぱ一枚一枚まで描きこむことはナンセンスだ。
このときの遠くの木をあらかじめ用意しておいた木の画像を貼り付けることで処理を省くことは、要するに「ハリボテ」である。

「どう見られるか」に集中してものを創ること。
このハリボテは、いわゆる「作品」と呼ばれるものだけではなく、たとえばビジネス・シーンにおけるプレゼンテーションなど、いたるところに見られるものである。
 

一方でものを創る者が自分に正直に創りこむ、という世界もある。

たとえば僕の「自動四字熟語」シリーズは、2136個の常用漢字のなかからランダムに選んだ4文字で熟語を作り、そこに偶然並べられた4文字の熟語に僕が意味をつけていく、という作品だが、ここで僕はこの作品をよりおもしろくするために現れた4文字の組み合わせから恣意的に面白そうなものだけを選んでその意味を付け加えていく、ということもできるはずだ。
そうすればそれを観る人にはそこに現れた四字熟語が恣意的に選別されたものだということには気づかないまま、それを楽しむことができるだろう。

あるいは「瞑想するコンピューター」は思考作品であるが、これを実際にプログラムしてそれをどこかに展示することは簡単にできる。
ここで展示されたものは外部には何も出力されないので、それを観る者にとってはただ電源が入ったコンピュータが何も表示しないまま置かれているだけ、ということになる。それでも「瞑想するコンピューター」と名付けられたその作品は、観る者にとっては、「ああなるほど、瞑想しているんだなあ」となるだろう。
なのでこのプログラミングをも省いてしまって、ただ電源が入った状態のコンピューターを置いておくだけ、ということも可能だ。

だが僕はそれをしない。

それは僕のこの作品のコンセプトに大きく関わる問題で、そこで「観られること」を優先するあまり、肝心なところをハリボテにしてしまうことは考えられない。
それを誰にもバレないようにこっそりとやってしまうことはできるのであろうが、それをやってしまうことは一生「創ること」をやり続けていこう、と思っている僕自身の内部崩壊である。

あるいはそこで誰にもバレないようにこっそりとやること自体を「作品」としてしまう、というひとつメタのレベルでのアイロニカルな作品、ということはありえるのかもしれないが。

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myinnerasia at 08:05│Comments(0)創ることについて 

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