見立てと逆育てゲーとファンタジーと無数の小ガラパゴスとネゲントロピー

2016年09月12日

視線が刺さってこない街

先日、大阪に住む弟が上京したので、夜一緒に飲みに行った。
その時の会話。

僕:「で、久しぶりの東京はどうかね?」
弟:「いやあ、こっちはやっぱり気分が楽やわ。昔、兄ちゃんが言っていたように、『人の視線が刺さってこない』ところが何ともいい。」

「人の視線が刺さってこない」
確かに東京はそういう街である。
 

僕が生まれ育った大阪や、大学以降長く暮らした広島という街は、とにかく人の視線を気にしながら過ごすことを強いられる街である。
これは、東京に行くことがあったときに初めて気づくことであり、ずっとそこに住み続けている人には分からない感覚。生まれた時からずっと視線に突き刺され続けていたために、それがふっとなくなった時に、「ああ、今まで僕は視線に刺され続けていたんだ」と気づく。

それは何か具体的にジロジロと見られる、いうようなものではない。
何かをしようとするときに、どうしても自意識過剰にならざるを得ない何とも言えない空気で満たされている閉塞感。それに気づくためには一度、自意識過剰でなくてもやっていけそうな街の空気を吸ってみることだ。
そのために僕は、大阪、広島に住んでいた頃は定期的に東京に来ることにしていた。

そしてそのうちに、東京で仕事をすることになり、二度と大阪、広島には住めないようになってしまった。
いまでも仕事などでたまに大阪に行くことはあるが、「故郷に戻ってきた」という感覚にはどうしてもなれず、なんとも居心地が悪い。

東京では視線が刺さってくることがない、ということの理由は何なんだろう?
誰もが他人に無関心だからだろうか?皆、自分のことで精一杯で他人にかまっていられないのかも知れない。
街で変な格好をしている人がいても、放っておいてくれる。東京以外の街では、陰でクスクスと笑われる。
これは無関心からくるものなのだろうか?それとも優しさなのかも知れない。

僕は「日本国内の東京以外の街から東京を見る」というベクトルの延長上にニューヨークがある、と思っている。
東京からニューヨークに行くと、さらに気持ちが楽になる。
他人に迷惑さえかけなければ、何をやっていても放っておいてくれる街。

ただニューヨークにおいては、その視線が刺さってこないことの理由がちょっと違うのかも知れない。
ニューヨークは言うまでもなく、高度に人種の坩堝化した街で、ブロック毎に中国語しか通じない地区があったり、タクシーの運転手のスペイン語訛りの英語が英語に聞こえなかったりする。
無数の人種、文化がミックスした街で、それでも何とかみんなが生きている。アジアだ。
そのアジアでは、お互いの人種間、文化間での衝突を避けようとする力が働く。
それが「視線を突き刺さないこと」という不文律にあらわれているのだ。

一方東京においては、最近こそ海外からの人の流入が激しいが、基本的には単一民族と考えられているこの日本で、それでもやはり「視線を突き刺さないこと」という不文律がある。
これは、人種、文化という比較的大きな「くくり」で小ガラパゴスがひしめき合うニューヨークとは違って、さらに小さな単位である個人、という最小のガラパゴスにまで多様化している東京だからこその現象なのだろう。



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myinnerasia at 08:04│Comments(0)雑な談 | アジア

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