2016年10月11日
エスニックであること
日本人は自分がアジア人であることを忘れがちだ。
「エスニック料理」と言えば、だいたいタイやベトナム、インドの料理を指すが、少なくとも日本においては日本料理は エスニック料理に入るとは考えられていない。
「アジア雑貨」と言えば、(日本以外の)アジアの雑貨を指す。日本は含まれていない。
これは西洋人が日本に抱く感覚と異なっている。
西洋人は日本についてもアジアであると認識しているし、日本人の顔つきをオリエンタルだ、と見ている。
この感覚の差異は、アートについても言える。
「エスニック料理」と言えば、だいたいタイやベトナム、インドの料理を指すが、少なくとも日本においては日本料理は エスニック料理に入るとは考えられていない。
「アジア雑貨」と言えば、(日本以外の)アジアの雑貨を指す。日本は含まれていない。
これは西洋人が日本に抱く感覚と異なっている。
西洋人は日本についてもアジアであると認識しているし、日本人の顔つきをオリエンタルだ、と見ている。
この感覚の差異は、アートについても言える。
たとえば、「インドの現代アート」というものが展示されているとする。実際には僕はインドの現代アートについて何も知らないが、「インドの現代アート展」を観るとすれば、たとえそれが「現代アート」とされていても、少なくとも僕はそこに「インド的な何か」を探すことだろう。
「現代アート」と名乗りながらそこにエスニシズムを持ち込むことに、違和感を感じてしまうのはなぜだろうか?
モダニズムというものは芸術だけではなく、あらゆる分野において、歴史的文脈や、民族的文脈を切り離す試みであった。そのモダニズムの流れの中で切り離された歴史的・民族的文脈を「ずらす」ことがポストモダニズムであるとするのであれば、その「ずらし」に最も成功したアーティストは、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)である。
YMOはまずヨーロッパ、アメリカで受け入れられ、その後逆輸入というかたちで日本でも人気が出た。
ここで注目すべきことは、ヨーロッパ、アメリカでのコンサート時のステージ衣装が中国の人民服であった、ということだ。
また、一番最初にでたアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」では、それまででは考えられなかった、「コンピューターゲームの音」で始まる、まさに「新しいサウンド」であったが、各曲は中国や沖縄を思わせる音が散りばめられている。
YMOがヨーロッパ、アメリカで紹介される際には、「トーキョーから来た」ということを言い続けてきたわけであるが、その音楽やステージ衣装は明らかにトーキョーとはずれたものであった。
これは、ヨーロッパ、アメリカから見た日本というものが、同じ「アジア」として認識されている、ということをアイロニカルに表したものである。
ただ作品が「脱日本的」であるだけでは、結局はその漂白された「脱日本的」な作品の中に、「日本的なもの」を探す、ということが繰り返されるだけである。つまり日本人のアーティストにとって、エスニックであることはまぬがれないことなのである。
日本人のアーティストが、エスニックなものを観る眼差しから逃れ得る可能性があるのだとすれば、30年以上前にYMOがやったこの「ずらし」の手法について考えるべきであるだろう。
「現代アート」と名乗りながらそこにエスニシズムを持ち込むことに、違和感を感じてしまうのはなぜだろうか?
モダニズムというものは芸術だけではなく、あらゆる分野において、歴史的文脈や、民族的文脈を切り離す試みであった。そのモダニズムの流れの中で切り離された歴史的・民族的文脈を「ずらす」ことがポストモダニズムであるとするのであれば、その「ずらし」に最も成功したアーティストは、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)である。
YMOはまずヨーロッパ、アメリカで受け入れられ、その後逆輸入というかたちで日本でも人気が出た。
ここで注目すべきことは、ヨーロッパ、アメリカでのコンサート時のステージ衣装が中国の人民服であった、ということだ。
また、一番最初にでたアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」では、それまででは考えられなかった、「コンピューターゲームの音」で始まる、まさに「新しいサウンド」であったが、各曲は中国や沖縄を思わせる音が散りばめられている。
YMOがヨーロッパ、アメリカで紹介される際には、「トーキョーから来た」ということを言い続けてきたわけであるが、その音楽やステージ衣装は明らかにトーキョーとはずれたものであった。
これは、ヨーロッパ、アメリカから見た日本というものが、同じ「アジア」として認識されている、ということをアイロニカルに表したものである。
ただ作品が「脱日本的」であるだけでは、結局はその漂白された「脱日本的」な作品の中に、「日本的なもの」を探す、ということが繰り返されるだけである。つまり日本人のアーティストにとって、エスニックであることはまぬがれないことなのである。
日本人のアーティストが、エスニックなものを観る眼差しから逃れ得る可能性があるのだとすれば、30年以上前にYMOがやったこの「ずらし」の手法について考えるべきであるだろう。
myinnerasia at 08:02│Comments(0)│創ることについて