プログラミングの授業よりもアルゴリズムの授業を!多重ガラパゴス

2016年09月03日

ディベートと要約は必須科目にするべし

ここまで僕は、普段あんまりマジメに考えているわけでもない"教育"について、テキトーな意見を書いてみた。
こうやって見てみると、なんとも、、、エラソーになあ。。。
 


さて、ここまでに書いてみた、僕が思う理想的な教育について。

これら3つで僕が一番言いたかったことは、「瑣末な知識を詰め込むことよりも、ものごとを大局的に見る力をつけること」が一番大切である、ということだ。

だた、実際に教育する立場の人の側を想像して考えてみれば、確かに今の暗記を中心とした教育(とは言えないのかも知れないが)の方が評価がしやすい、というのはわかる。だがそれは教育する側の事情であって、一番肝心な教育される側のためのものではない。
そしてその結果、あまり役に立たない瑣末な知識だけを持って大人になっていく。

たとえば文章を要約する、という訓練は、ものごとを大局的に捉える力をつけることになるだろう。
日本の国語教育ではそういうのが一切なかったと僕は記憶しているが、要約というのはとても大切だ。
それによって、そこで伝えられようとしていることの一番大切な点を大枠で理解することができるし、また逆に自分が伝えようとしていることのポイントをブレさせることなく伝える力が身につく。

これからの国際社会では、日本は世界と対等にやりあっていく必要があり、(建前的には)軍隊を持っていないという不利をもカバーするだけの力が必要である。
そのためには、ものごとを大局的に捉えるという力と、もうひとつ必要な力として、ディベート力が挙げられる。

哀しいことにディベートについても、日本では義務教育に含まれていない。
確かにディベートというものは、日本の伝統的な文化には合わないものだろう。

ある個人の発言はその人の人格そのものである、という伝統的な文化。
そこでは「何を言ったか」よりも「誰が言ったか」が重視される。
悪人が言ったことは、いくら正しくて有益な意見であったとしても、聞いてもらえない。
また逆に、発言によってその人の人格への評価が変わってしまう。

だから、個人の意見をはっきりと言うことは時にタブーになってしまう。
「角が立つ」からはっきりと意見を言わない。
空気を読む。
以心伝心。
。。。でもそれらは日本の伝統的な文化の良い側面でもある、と僕は思っているが。

しかしそれらは世界とのやりとりでは通用しない。「はっきりと言わなくても通じるだろう」と考えていたら、「あのとき言わなかったから知らない」などと言われてしまう。
。。。それくらい分かっていただろう、と思うのだが。

日本の教育にディベートを取り入れることは、寡黙で相手の気持ちを思いやる美しい伝統的文化を壊すことにはつながらないと思う。
ディベートの考え方の基本は、「個人の人格と発言を切り離す」というものだ。
これは、人格と発言が同一視される日本人の考え方からはなじみ難いものではあるが、それはこのディベートの考え方が、発言にとってのメタ概念になるからである。
つまり、「人格と発言」の関係を俯瞰する視点から発言というものを考える、という「技術」である。
これから日本が世界と対等にやりあっていくためのツールとして身に付けるべきスキルだ。
ディベートを学ぶことなく大人になった日本人は、圧倒的にこの技術力に欠けている。なので世界と対等にやりあっていく時に苦労することになる。

などとまたまたエラソーに書いたものの、僕自身はディベートの訓練を受けたわけではなく、大学院の授業で何度か経験したことがあるぐらいなのだが。 

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myinnerasia at 10:05│Comments(0)教育 | メタロジック

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