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2016年06月22日

ネタばらし宣言風

「ネタバレ」って何なんだろう?
小説や映画などで、もうそれを読み終わった/観終わった者が、そのあらすじや、予想を裏切る展開などの「しかけ」について、 これから読もうとしている/観ようとしている人に、あっさりとバラしてしまうこと。

これがとても悪いことのように言われるのはなぜなんだろうか?

これから読もう/観ようとしている人にとっては、その展開がどうなるのか、ドキドキハラハラしながらストーリーを追っていくことが、小説や映画の最も大きな楽しみである、というその楽しみをあっさりと奪ってしまうこと。
サプライズを期待しているのに、それがサプライズではなくすること。

観光について考えてみる。
今は、世界中のどこに行くにも、ガイドブックがあり、初めて行く街であっても、歩き方が分かっているものだ。
そのガイドブックを元に「◯◯城に行ったあとは、@@でその国名物の##を食べて、食後は%%跡地を見てからお土産に**を買って帰ろう」と計画する段階が旅行で最も楽しい、という皮肉がよく言われる。
実際にその地に行ったあとは、予め立てた計画をトレースするのみである、と。
写真で見た◯◯城を確認しに行くだけだ、と。

本当にそうなのだろうか?

実際に◯◯城に行ってみたら、その場の空気であるとか、その空間の中に入った感じなどを実感することができ、それはガイドブックでは感じることのできない感覚であるはず。そして、「ああ、またここに来たいなあ」と思うことがいい旅なんだと僕は思う。
実際に手に触れることで、その空間に入ることで、リアリティを実感すること。 
そこにサプライズがあるかどうかはあまり大きな問題ではない。

小説や映画についても同じで、サプライズはその作品の本質ではない。言いかえれば、サプライズこそをウリにしている作品というものは、読む価値/観る価値があまりない。
そのことに気づかせてくれたのは、昨日取りあげた映画、「FAKE」 だ。

「FAKE」はそのポスターのコピーで、「誰にも言わないでください、衝撃のラスト12分間」と煽っていた。
この煽りは、あまりにもチープでキッチュなものであったが、これこそが「FAKE」という名にふさわしいしかけであって、実は別に衝撃などない、というメタサプライズになっている、ということを昨日書いた。

まだこの映画を観ていない人にとって、僕のネタばらしは楽しみを奪ったことになるのだろうか?

ネタばらしというものは批評であるべきであり、すべての批評はネタばらしである。
あるいは、そのネタに気づかなかった人に、そのネタに気づく方法を示すことでもある。
「僕はこう読みましたよ」
「ここのこのシーンは、こういう意味があったんですよ」
それは、これから読もう/観ようという人に対してであっても、もう読んだ/観た人に対してであっても、その作品のガイドブックの役割を果たす。
そして実際に旅をすると、その場の空気に触れることができる、というものだ。そこにサプライズは必要ない。
「ああ、またここに来たいなあ」と思えばいいのである。

だからこれからも僕はネタばらしをするぞ。 

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