無限の猿定理と自然界に存在する”意図”スクリプトとアドリブ

2016年09月16日

偶然性と偶然性の中に(たまたま)生まれる意味について

かつて現代音楽の潮流に「偶然性音楽」というものがあった。
それまでの音楽にあった「楽譜」という予定調和を超えて、作品を偶然性に任せること。
そのために、サイコロを用いたり、チェスの盤面にセンサーを仕掛けて、駒が置かれたらある音が出るような盤で実際にチェスをしたり、あるいは水槽にセンサーを仕掛けてその中で魚を泳がせる、といったものだ。

そして偶然性音楽は、アートにも拡がった。
「アクションペインティング」というものだ。



「アクションペインティング」と聞くと真っ先に思い浮かぶのはジャクソン・ポロックであろう。
ポロックの作品を思い浮かべればわかる通り、そこには予定調和性は完全に排除され、偶然に身を任せた動きの記録として、その軌跡が描かれている。

ここで変なことを書いてみようと思う。
作者の意図を超えて、偶然性に身を任せたままに生まれる音楽や絵画には、偶然に何らかの意味のあるものが現れることはないのだろうか? 
たとえば、実験音楽として何らかのランダムな入力(金魚の動きなど)によってメロディーを奏でるときに、"たまたま"「メリーさんのひつじ」のメロディーが奏でられてしまうことや、ジャクソン・ポロックの絵の中に"たまたま"モナリザが描かれている、といったような。
これは無限の猿定理に沿って言えば、充分ありえることである。
ただしジャクソン・ポロックが十分長い時間暴れ続けること、という但し書きつきではあるが。

このときその実験音楽、あるいはアクションペインティングはそのテーマであったはずの「偶然性」を失うことになるのだろうか?
偶然浮かび上がった「意味」というものはそれでもやはり「偶然」なのだろうか?

偶然性音楽やアクションペインティングは「偶然性」をテーマにするものではあるが、それは実は「創作のされかた」のことではなく、「鑑賞のされ方」に関わるものである。
鑑賞者がそこに「意味」を見出してしまった場合、それはすでに意味を持つことになってしまう。偶然性音楽として奏でられていたはずの音楽の中に、突然「メリーさんのひつじ」が引用されてしまったのだ。
同様に、ジャクソン・ポロックの作品の中にモナリザが引用されてしまった、と考えるのが正しい。

タイプライターを打ち続けるチンパンジーはいつの日か、シェイクスピアの文章を"たまたま"打ち出す日は必ずやってくる。
そのときそれに人間が気づいたとすれば、それはチンパンジーが書いたシェイクスピアの文章なのである。

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myinnerasia at 08:18│Comments(0)メタロジック | 生命

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