ディベートと要約は必須科目にするべし天動説宣言風

2016年09月04日

多重ガラパゴス

僕は携帯電話を持つようになってから、ずっとソフトバンクユーザーだ。
正確には、J-Phone → Vodafone → ソフトバンクと勝手に向こうが変わったが、要するに一度もドコモになったことはない。

「ガラパゴス携帯」という言葉が使われ始めたのは当然のことながら、iPhoneおよびその後に続くスマートフォンが普及し始めてからのことだが、僕は元々ソフトバンクユーザーだったおかげで、日本国内では「脱ガラパゴス」するのが早かった方だと思う。



だが、黒船iPhoneがやってくる前夜の日本、いまから振り返れば「ガラパゴス」と揶揄される世界においては、ソフトバンクユーザーは肩身のオモイセマイをしていた。
何が違うのかはよく知らなかったが、FOMAというのを持っている奴がとてもまぶしく見えたし、おサイフケータイというものは未来のものに見えた。

今になっては「ガラパゴス」と呼ばれるそのガラケー全盛期においては、FOMAやおサイフケータイというものが標準で、僕はその中では標準ではない閉じた系である小ガラパゴスの中に閉じこもっていたのである。

つまり、ガラパゴスというものは何重にも入れ子構造になっているものなのだ。

思い返してみれば、MS-DOSという黒船がやってくる前の日本はNECのPC-9800シリーズという汎用性が一切ないパソコンの全盛期で、MS-DOS前夜は世界的にもPC-9800が「標準」であった。
そして僕はその時にもその「主流」には乗ることができず、大学ではUNIXを使い、家ではLinuxを使っていた。さらに時代をさかのぼるのであれば、PC-8000やPC-8800などの8ビットパソコンの時代には、SharpのMZという、これまた主流からは外れるものを使っていた。

僕は個人的にはMS-DOSがグローバルであるとは思っておらず、それもまたガラパゴスである、と思っているが、MS-DOSがやってくる前のPC-9800はやはり今思えばガラパゴスで、当時はガラパゴスとは認識されていなかったPC-9800ワールドの中で、僕はその標準から外れた世界にいたのである。
その多重化されたガラパゴスの中で、マイノリティとして、自分にだけ見えている風景の中で生きていた。

そして世界はそういうマイノリティをも受け入れるダイバーシティが保たれた世界で、そしてそういう世界は当然のことながら充分にアジアであった。

「ガラパゴス」というものは、ただ単に閉じた系というわけではなく、その中にはさらに無数のガラパゴスがあり、さらにそれらの中には、、、という自己相似型のフラクタル構造をしている。
人間社会で例えるのであれば、単一民族で構成されている、と思われていたガラパゴス的なある島国の中には、実際には数々のマイノリティが独自の閉じた社会を構成していて、、、ということを繰り返すことにより、最終的には個人単位にたどり着く。
つまり「ダイバーシティ」というものは、究極的には「個人主義」について語っている、ということに過ぎず、それがフラクタル構造である、ということは、それは結局は実体を持たないものである、ということになる。

つまり「面」と思われていたものは、その細部に注目してみれば実は「線」で構成されていた、ということに見られるように、フラクタル構造の中では実体が消えてしまうことになる。

ガラパゴスの中のガラパゴスの中のガラパ。。。というものは実体を持たない。

オープンソースの中心となるGNUが何の頭文字を取ったものか、といえば、"GNU's Not Unix!"である。
この元に含まれるGNUを展開すると、

GNU = GNU's Not Unix! = GNU(GNU's Not Unix!)'s Not Unix = GNU(GNU(GNU(GNU's Not Unix!)'s Not Unix)'s Not Unix!)'s Not Unix ...

ということを永遠に繰り返すことになり、GNUの"G"が何であるのか、ということが分からず、つまりはGの実体というものが消えることになる。
これと同様、多重化したガラパゴス的な系においては、その系に含まれるものすべてが実体を持たない、ということになる。
「面」と思われていたものが実は線で構成されているために面積を持たない、ということを明かしたヒルベルト曲線のようなものである。

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myinnerasia at 20:42│Comments(0)アジア | 生命

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