2016年09月05日
天動説宣言風
「太陽や月や星が回っているのではない、地球が回っているのだ」と教わったときからずっと、僕はそれに違和感を感じ続けている。
地球が太陽の周りを回っている、という宇宙観。
ものが「動いている」ということを言うためには、静止している点を定義する必要がある。
この宇宙のどこかに唯一の「止まっている点」を定義しないことには、何が動いているか、ということは言えないはず。
そして、地球が止まっているのでなければ、太陽も止まっているわけではない。
この宇宙のすべてのものが動き続けているはずで、この宇宙には本当は止まっている点というものは存在しないはず。
そういうことを僕は、小さい頃からずっと感じていた。
だから、「太陽は止まっていて、地球は回っている」ということに違和感を感じていた。
地球が太陽の周りを回っている、という宇宙観。
ものが「動いている」ということを言うためには、静止している点を定義する必要がある。
この宇宙のどこかに唯一の「止まっている点」を定義しないことには、何が動いているか、ということは言えないはず。
そして、地球が止まっているのでなければ、太陽も止まっているわけではない。
この宇宙のすべてのものが動き続けているはずで、この宇宙には本当は止まっている点というものは存在しないはず。
そういうことを僕は、小さい頃からずっと感じていた。
だから、「太陽は止まっていて、地球は回っている」ということに違和感を感じていた。
本当は、この宇宙のすべてのものが動いている、ということを言うためにも、この宇宙のどこかに静止しているある一点を定義する必要がある。
そしてその「この宇宙で静止している唯一の点」を僕は「私」だと思っている。
つまりこの宇宙は、俺様を中心に回っているのだ。
この考え方でいけば、この世に宇宙を認識できる主体の数だけ宇宙が存在することになる。
そのとおりである。
宇宙は、世界は、認識されるから存在する。
そして誰もいないノーマンズランドには、世界そのものが存在しない。なぜならそれを認識する主体が存在しないから。
「私」を中心に回っている世界。この宇宙で唯一止まっている点である「私」。
あるいは、この宇宙のどこかにある静止している点を定義する必要があったので、"とりあえず"その静止している点を「私」とすること。
近代科学は「私」を排除し、「私」ではない宇宙のどこかに唯一静止しているある一点を定義することによって、世界を客観的に捉えようとした。
「『私』ではない宇宙のどこかに唯一静止しているある一点」というものが形而上のものである、ということについては無自覚なままに。
そこになんらかの静止した唯一の点を定義する際に、それを「私」の外部に求めようとしてしまった。
そうすることで「私」を排除することができた。それこそが近代科学であり、モダニズムであった。
科学というものは、とりあえずxとすることでものごとの説明を重ねていく。そのxの定義が揺らいでしまったら、それを前提に積み重ねられたより高次の仮説はすべて崩れてしまうことになる。
高級言語が低級言語の上に成り立っているように。
近代科学が「とりあえずx」とした、この宇宙で唯一止まっている点に太陽を選んでしまったことは、太陽系の外側に、さらなる世界が広がっていることを知ったときに破綻する運命にあった。
そしてそのどこまでも外側を求めることが科学であるとするのであれば、それは永久に終わることのない無限地獄である。
この宇宙で唯一止まっている点を「私」とすること。
それによって宇宙は、宇宙を認識することができる主体の数だけ存在することになる。
僕はここに「太陽がこの宇宙で止まっている唯一の点である」ということを前提に、「地球は動いている」とする地動説というものを全面否定する。
地動説を義務教育で教えることは明らかに間違っている。
なぜならこの世界は、この世界を観察している「私」を中心に回っているからだ。
なのでここに僕は、天動説論者であることを宣言する(風)。
そしてその「この宇宙で静止している唯一の点」を僕は「私」だと思っている。
つまりこの宇宙は、俺様を中心に回っているのだ。
この考え方でいけば、この世に宇宙を認識できる主体の数だけ宇宙が存在することになる。
そのとおりである。
宇宙は、世界は、認識されるから存在する。
そして誰もいないノーマンズランドには、世界そのものが存在しない。なぜならそれを認識する主体が存在しないから。
「私」を中心に回っている世界。この宇宙で唯一止まっている点である「私」。
あるいは、この宇宙のどこかにある静止している点を定義する必要があったので、"とりあえず"その静止している点を「私」とすること。
近代科学は「私」を排除し、「私」ではない宇宙のどこかに唯一静止しているある一点を定義することによって、世界を客観的に捉えようとした。
「『私』ではない宇宙のどこかに唯一静止しているある一点」というものが形而上のものである、ということについては無自覚なままに。
そこになんらかの静止した唯一の点を定義する際に、それを「私」の外部に求めようとしてしまった。
そうすることで「私」を排除することができた。それこそが近代科学であり、モダニズムであった。
科学というものは、とりあえずxとすることでものごとの説明を重ねていく。そのxの定義が揺らいでしまったら、それを前提に積み重ねられたより高次の仮説はすべて崩れてしまうことになる。
高級言語が低級言語の上に成り立っているように。
近代科学が「とりあえずx」とした、この宇宙で唯一止まっている点に太陽を選んでしまったことは、太陽系の外側に、さらなる世界が広がっていることを知ったときに破綻する運命にあった。
そしてそのどこまでも外側を求めることが科学であるとするのであれば、それは永久に終わることのない無限地獄である。
この宇宙で唯一止まっている点を「私」とすること。
それによって宇宙は、宇宙を認識することができる主体の数だけ存在することになる。
僕はここに「太陽がこの宇宙で止まっている唯一の点である」ということを前提に、「地球は動いている」とする地動説というものを全面否定する。
地動説を義務教育で教えることは明らかに間違っている。
なぜならこの世界は、この世界を観察している「私」を中心に回っているからだ。
なのでここに僕は、天動説論者であることを宣言する(風)。