2016年09月01日
文化人類学を義務教育の必須科目にせよ
僕は小学生の頃から歴史の授業が苦手だ、ということを書いた。
本来は、歴史の大きな流れを学び、そこから現代に至る、ということを学ぶ大切な場であるはずなのに、そこでされていることは、暗記を中心とした詰め込み教育である。
それによって「歴史」という本来とても大切なはずのものに嫌悪感しか持たないまま今に至ってしまったことを僕は恨んでいる。
社会科の授業は歴史、地理、公民があった(あれ?他にもあったかな???)が、僕はそこに文化人類学も追加するべきだ、と考えている。
本来は、歴史の大きな流れを学び、そこから現代に至る、ということを学ぶ大切な場であるはずなのに、そこでされていることは、暗記を中心とした詰め込み教育である。
それによって「歴史」という本来とても大切なはずのものに嫌悪感しか持たないまま今に至ってしまったことを僕は恨んでいる。
社会科の授業は歴史、地理、公民があった(あれ?他にもあったかな???)が、僕はそこに文化人類学も追加するべきだ、と考えている。
僕たちが子供だった頃と比べて、今の日本は明らかに国際化が進んでいる。
日本人が海外で仕事をする、ということが増えているし、また海外からの人がどんどんと日本にやってきている。
実際のところ僕は現在、まだ日本法人がないフランスのあるIT企業に所属していて、そこから頂く給料で生活している。
給料をユーロでもらうので、日本で生活している=円で生活している僕にとっては毎月の月収が為替変動によって微妙に異なる。
これが現実だ。
今の僕の状況は日本では珍しいことなのかも知れないけれど、いずれ近いうちにこういうのは普通のことになっていくんだろうな、と思う。
それまで閉鎖されたガラパゴスだった日本が世界に開かれ、どんどん多様性が増していく中で、世界中の人たちと共存していくためには、たとえば道徳の授業というものにはそれほど力はない。
なぜなら今の道徳教育で教えられている道徳というものは、「民主主義」というひとつの特殊な価値観を元にした道徳であるにすぎず、世界全体で見た場合にそれが普遍的なものであるとは必ずしも言えないからだ。
社会科の地理の授業は、世界中の色々な地形や、各地でとれる特産物、人種などについては一通り習うが、本来は人間の文化というものを中心に学ぶべきで、そこにはたとえば僕たちが普通に「正しいもの」として考えている民主主義の観点からは理解できないような価値観というものもあり得る。そういうものをも含めて色々な文化について学ぶ必要があり、それによってこそお互いの文化を理解することができるようになる。
そのような教育を受けてこなかった僕たちは、たとえば正統派ユダヤ教の人が金曜日には電気製品を一切使えないことを知っていたとしてもそれは単に「もの知り」ということとして扱われるだけであり、実際にそういう人たちと共存していくための必須の知識としては考えられていない。(ちなみに僕の唯一のチャームポイントはヒップラインだ。ももしり。。。これからもこういうちょっと硬めのことを書くときには、適宜、テキトーなダジャレを散りばめていくことにします。テキトーでごめんなさいだけど。)
今後、日本の社会が多様化していく中で、今の僕たちからは考えがつかないような文化・習慣を持つ人々と共存していく必要があり、そのための理解を育てるというためには文化人類学という教養は必須である。
だが、実際に文化人類学が義務教育の科目として扱われるようになると、またいつものように暗記科目になってしまう、ということが懸念されるが。。。
日本人が海外で仕事をする、ということが増えているし、また海外からの人がどんどんと日本にやってきている。
実際のところ僕は現在、まだ日本法人がないフランスのあるIT企業に所属していて、そこから頂く給料で生活している。
給料をユーロでもらうので、日本で生活している=円で生活している僕にとっては毎月の月収が為替変動によって微妙に異なる。
これが現実だ。
今の僕の状況は日本では珍しいことなのかも知れないけれど、いずれ近いうちにこういうのは普通のことになっていくんだろうな、と思う。
それまで閉鎖されたガラパゴスだった日本が世界に開かれ、どんどん多様性が増していく中で、世界中の人たちと共存していくためには、たとえば道徳の授業というものにはそれほど力はない。
なぜなら今の道徳教育で教えられている道徳というものは、「民主主義」というひとつの特殊な価値観を元にした道徳であるにすぎず、世界全体で見た場合にそれが普遍的なものであるとは必ずしも言えないからだ。
社会科の地理の授業は、世界中の色々な地形や、各地でとれる特産物、人種などについては一通り習うが、本来は人間の文化というものを中心に学ぶべきで、そこにはたとえば僕たちが普通に「正しいもの」として考えている民主主義の観点からは理解できないような価値観というものもあり得る。そういうものをも含めて色々な文化について学ぶ必要があり、それによってこそお互いの文化を理解することができるようになる。
そのような教育を受けてこなかった僕たちは、たとえば正統派ユダヤ教の人が金曜日には電気製品を一切使えないことを知っていたとしてもそれは単に「もの知り」ということとして扱われるだけであり、実際にそういう人たちと共存していくための必須の知識としては考えられていない。(ちなみに僕の唯一のチャームポイントはヒップラインだ。ももしり。。。これからもこういうちょっと硬めのことを書くときには、適宜、テキトーなダジャレを散りばめていくことにします。テキトーでごめんなさいだけど。)
今後、日本の社会が多様化していく中で、今の僕たちからは考えがつかないような文化・習慣を持つ人々と共存していく必要があり、そのための理解を育てるというためには文化人類学という教養は必須である。
だが、実際に文化人類学が義務教育の科目として扱われるようになると、またいつものように暗記科目になってしまう、ということが懸念されるが。。。
myinnerasia at 08:03│Comments(0)│教育