無数の小ガラパゴスとネゲントロピー無限の猿定理と自然界に存在する”意図”

2016年09月14日

日本語は話せますか?

先日、一緒に仕事をしているある会社の人に、僕が勤めている会社のある国から同僚(日本人ではない)が来日するのでぜひお会いしていただきたい、ということを話した時、そのある会社の人(日本人)が不思議なことを言った。

「その人は日本語は話せますか?」

その人(日本人)は英語が話せないことは知っているし、海外から来る人と会うことになったら不安になる、という気持ちもわかる。
だが、どうして海外から来る日本人ではない人がたまたま日本に来るというだけで日本語が話せるか、と思うのだろう?と不思議になった。
 

そりゃ「日本に来るのだから日本語ぐらい話せるようになってから来い」などという乱暴な考え方もあるだろう。
だけど、そんなこと言っていたら僕たち日本人もたとえばタイに行く時にはタイ語を、フランスに行く時にはフランス語を話せなければならなくなる。
それは明らかに無理な話だ。

日本国内だけで仕事をしていて、日本語だけで仕事が成り立っている世界に生きている人にとっては、そこに日本語が話せない他者が突然入ってくることが苦痛であることは想像がつくが、「日本語が話せること」が世界標準である、という感覚にはどうしてもなれない。

これは本当に偶然のことであるが、たまたま同じ日にとてもよく似た光景に出くわした。
その日の午前、僕は近所の医者に行っていた。
待合室で順番を待っていたら、中国人と思われる夫婦がやってきた。どうやら初診だったらしく、問診票を書かされていた。
そこに看護婦がやってきて、「今日はどうされましたか?」などと聞いていたのだが、どうもその中国人夫婦のうちの夫の方が病気で、その妻が付き添いで来ているようだった。その夫は日本語がまったく話せないらしく、ちょっとだけ日本語ができると思われる妻が看護婦と夫の間に入って、カタコトの日本語でやりとりをしていた。 
症状を色々と細かく聞かれていたが、妻もあまりうまく伝えられていなかった。
そして、そのときにその妻が言った。

「先生は中国語は話せますか?」

日本では中国語が話せる人は英語が話せる人よりもはるかに少ないだろう。
ただ世界全体の人口からすれば、中国語を話す人が3分の1もいるのだから、世界中のあちこちで「中国語は話せますか?」と聞けば、3人にひとりは中国語を話す人に会えるはずである。
それでもこの日本で「中国語が話せるか?」という質問はなんだかおかしい。中国語であれば症状をより正確に伝えられて、より正しい治療を受けられる、という気持ちは分かるが。。。

僕の感覚からすれば、海外からやってくる外国人が日本語を話すことができるのか、ということを気にすることは、日本の病院で「先生は中国語が話せるか?」と聞くことと同じぐらい変な感じだ。
むしろ確率的に言えば、世界のどこかである人に「中国語が話せるか?」と聞くことのほうが変な質問ではない、ということになってしまう。

これからどんどん外国人が流入してくることが目に見えている日本において、そこに住む我々日本人は哀しいことに国際感覚がかなり未熟だ。
僕は英語が話せることが国際感覚だ、とは思っていない。たとえ英語が話せなくても、世界から見た日本、という視点を持つことはできるし、その感覚によって、英語が話せないことなどカバーできると思っている。

だが今の日本人は、世界から見た日本、という視点が絶望的に欠如している。
それは、海外からやって来たある人が日本語が話せるか?ということを普通の疑問として持つ感覚に現れている。

日本の病院で、「先生は中国語を話せますか?」と聞く中国人のことを僕たちは笑うことはできない。

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myinnerasia at 08:03│Comments(0)雑な談 

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