2016年06月21日

映画「FAKE」:衝撃のラストシーン12分間について話すぞ

佐村河内事件については、元々全く知らない人だったが、事件があった当時、僕はとても注目していた。
ここにいつも書いているような虚構がテーマになっていること、そしてその嘘がバレたあとのいつもの世間による公開処刑をずっと見ていた。

当時、僕はFacebookで以下のようなことを書いた。2年経った今読み返しても、なかなかの名文だ(自自)。

佐村河内=マルセル・デュシャン

今回の騒動までこの人を知らなかったし、だいたい何て読むのか、どこまでが苗字なのかもよく分からなかったのだが、この騒動についてはとても重要なことが浮き彫りになった事件だと思っている。

この事件は、「作品」と呼ばれるものの<作家性>が虚構であるということを暴いた。「耳が聴こえない人が書いた曲」「現代のベートーベン」などという物語性は、そのインパクトの強度こそ違え、「○○という作家作」という物語性と本質は大して変わらない。そして今回はその二つともが偽りであった、ということが問題にされている。

さて、そんなことが問題なのか?

僕は、元々<作家性>などというものは虚構で、作者も鑑賞者もその物語に陶酔する、ということそのものが退屈だと思っている。作品を作家やそれの創作にまつわる物語から切り離すことの方がずっとラディカルで、おもしろいゲームだ。

Mott社製の小便器に"R.Mutt(Richard Muttという偽名。muttは、のろま、という意味らしい)"とサインをしてアンデパンダン展に出品したマルセル・デュシャンの「泉」という作品は、それまでの芸術というものの枠組みを大きく変え、現代アートまで大きな影響を与えつづけている。

この100年前の事件以降、現代音楽も現代アートも、デュシャンが敷いた風呂敷の上にいる。ジョン・ケージの実験音楽も、自動筆記と呼ばれる作品群も、<作家性>という虚構を暴くゲームだった。

そしてもう一方では、<作家性>という物語の夢を見つづけたい作家とその鑑賞者による「暑苦しい世界」というものも、100年間ずっと平行してきた。

今回のこの事件は、その「暑苦しい世界」側にいたはずの佐村河内氏が「なーんだ、こっち側じゃなかったのかー」と皆が残念がっているの図。

いいじゃん、彼もデュシャン側だと思えば。僕はこっち側から応援しています。

未だに何て読むか、どこまでが苗字かもよく分からないけど…

いやあ、なかなかやるじゃないか、当時のオレ。
2年前の自分にウットリする、というのは全く進歩していない、ということなのだろうが、当時から同じことを言い続けているんだなあ。
「<作家性>の解体」だとか、「デュシャンはいいぜ」だとか。

さて、映画「FAKE」であるが、前評判の高さからか、立ち見が出るほどの盛況ぶり。
「誰にも言わないでください、衝撃のラスト12分間」という、チープでキッチュなコピーにそのまま釣られた層が数十%、いやいや森達也のことだからひとひねりもふたひねりもあるんだろう、と構えてきてるヤツ5%ぐらいか?

僕はそのどちらでもなかった。 
ただ当時めちゃくちゃ注目していた事件のドキュメンタリーであり、さらにそれを「FAKE」と名付けるセンスに、見に行かずにはいられなかった。

この映画は、見ている間中ずっと疑いの目を持ち続けることになる。
「やっぱり本当は聞こえているんじゃないか?」などとその証拠を探そうとする目。
森さんは佐村河内には「味方だ」と言っているが、どこまで本気なんだろう、という目。
夫婦愛が描かれるシーンを観て、「そんなんでは泣かされないぞ」という冷めた目。

前から気づいていたことではあるが、テレビの画面がスクリーンに映し出されるときは、テレビというものが本当に嘘っぽいものである、ということを思い知らされる。
それはツインピークスでたびたび出てくる、テレビでメロドラマを観ているシーンや、テレビでやってる西部劇で拳銃を撃つシーンから本来のドラマのシーンに戻って来てそこで本当の拳銃が鳴る、という、ツインピークスによくあるシーンを観ていたときからずっと感じていたことであるが。

テレビに映し出されると、新垣が本当に気持ち悪く見える。
これはこの映画の情報操作にまんまとはまってしまっている、ということか。
そしてこの映画の最大の情報操作。

それは先ほども書いた「衝撃のラスト12分間」だ。
「誰にも話さない」と誰とも約束した覚えはないので、堂々とネタばらしをする。
その「衝撃のラスト12分間」とは佐村河内のまだ明かされていない真実だとか、あるいは森達也が佐村河内を裏切るとかではなく、、、

これは本当は副次的なFAKEなんであろうが、「誰にも話してはならない衝撃のラスト12分間」というものそのものがFAKEなのである。

「誰にも話してはならない」「衝撃の」「ラストシーン」というのはいかにも思わせぶりで、この映画の価値を釣り上げる演出になっているが、その演出自体が(笑)いになっていて、実態はない。
普通はこういう「誰にも話してはならない」「衝撃の」「ラストシーン」というのはサプライズが仕込まれていて、それがその作品の"見せ場"であるものだが、「FAKE」の場合に限っては、それをあっさり裏切る、ということがサプライズになっている、メタサプライズとでもいうべきものである。

ドキュメンタリーというものは、メタレベルで攻めるしかない、というのが本質なんだろうな。

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myinnerasia at 08:07│虚構 | メタロジック