ビッグデータは宇宙の縮図視線が刺さってこない街

2016年09月09日

見立てと逆育てゲーとファンタジーと

「見立て」というものは日本の伝統のあちこちに見られる。
たとえば落語では手ぬぐいと扇子が様々なものに見立てられて演じられることが芸になっている。

手ぬぐいを丼に、扇子を箸に見立てて、うどん(江戸落語では蕎麦)をすする様を見ていると、本当にうどんが食べたくなったりする。観る者にそこまで感じさせられるかどうか、というのが落語家の腕の見せどころでもある。

でもなぜ手ぬぐいと扇子だけで何もかもを表すことがそれほど素晴らしいことなのだろうか?
 

そのひとつの理由は、不自由なところで創られるものが素晴らしいからである。
美しい創作物は、ある程度不自由なところで生まれる。またそれこそが芸になる。

この不自由は芸を見せる側だけの不自由ではなくて、観る側の不自由でもある。
手ぬぐいと扇子で何もかもを表現されるとき、そこに表されているものを感じ取る、ということは逆育てゲーである。
観る者に不自由さをもたらす逆育てゲーは説明不足であり、また観る者にファンタジーを夢見る機会を与えている、とも言える。

僕はゲームをほとんどしないが、最近の3Dバリバリのゲームにはまったく魅力を感じない。
やっていないのであまり言ってはいけないのだろうが、ゲームそのもののおもしろさよりも、見た目を競争しているだけのように見える。最初に見た時に「おおっ!」と驚いたら、そのゲームの見せ所の半分は終わり。

それよりも8ビット時代のキャラクターの縁がギザギザのゲームの方がずっと面白かった。
たとえばファミコン時代のドラクエ。遠近感が排除された上から見た世界を、ギザギザのキャラクターが縦か横に進んでいく。表示される文字もギザギザ。
でもそのころのドラクエには明らかに壮大な世界を夢見させるファンタジーがあった。
そしてバージョンが上がっていくたびにグラフィックスが洗練され、どんどんつまらなくなってしまったように思う。

これも、抽象的なものを何かに「見立てる」ことによってファンタジーを夢見る、という芸になっている、ということである。

8ビット時代のファミコンゲームよりさらに抽象的なものを挙げるのであれば、それは囲碁、将棋、チェスなどのボードゲームである。
これらはいずれも戦(いくさ)をファンタジーとして極限にまで抽象化されたものである。
現代のビデオゲームと比べると、非常に単純なルールであるにもかかわらず、その単純なルールという不自由さの中に、無数の技があり、無数の戦略というものがある。
高い抽象性から生まれる不自由さとファンタジー。
だからこそ、長い間人々に楽しまれ続けるものになっているのだろう。


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myinnerasia at 08:02│Comments(0)メタロジック | 逆育てゲー

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