勝手にイメージしてりゃいいのにC(imm)-004

2016年05月23日

ボサノバは恥ずかしい

世の中では「アート=オシャレ」という認識がかなり浸透している。まるでアーティストが、
あるいは何らかのかたちでアートに関わっている人が、オシャレな人、という認識をされるようでる。

あるいはよく言われる「クリエイター」という職業。
僕は未だにクリエイターと呼ばれる人たちが何を創る仕事をしているのかわかっていないのだが、
どうやらクリエイターもアーティストらしい。そしてオシャレだそうだ。

知り合いが結構いたりするので実例を挙げづらいのだが、「オシャレなアート」と呼ばれるもの、
あるいはそういう作品には、だいたい時代への責任というものが感じられない。

ただ、シュッとしている。

そして、そういうものが置かれているところではボサノバが流れている。

だから、そういう作品群のことを「ボサノバ」と呼ぼう。

時代に責任を持たず、ただシュッとしていてオシャレなアート(笑)。
一方で、アート史を背負って今の時代にあるべきアートについてマジメに考えているアーティストもいる。
どちらも「アーティスト」と呼ばれる。

ボサノバの作品から何かを読み取ろうとすることは不可能である。
なぜなら、その作品にはこちらが読み取ろうとするレベルでの意図は含まれておらず、ただシュッとする
こと、インテリアをオシャレな空間にすること、「カッコイイ」と感じさせることがその意図のメインだからだ。
なので、そういうものは世界のアートシーンで語られることはなく、せいぜい個人のインテリアの一部として
活躍するのみである。

そして、これらボサノバは言うまでもなくゲスでヤンスのひとつの形である。
それは、これらの作品が以下のような会話の中で生まれてくるからだ。

「この絵はもうちょっと色を浅くしたほうがオサレになるでゲス。」
「ここにこういう文字を入れといたでヤンス。もちろんヘルベチカでゲス。ひっひっひっ」
「名前はフランス語っぽい響きがオサレでゲス。ラ・なんとかにするでヤンス。」

ところで、世の中でよく議論されるバカげたテーマに「アートとデザインの違いは何か?」がある。
アート側の人間の優越感とデザイン側の人間の劣等感の対立。
だがここでは、「ボサノバ=デザイン」と言いたいわけではない。

むしろ逆だ。

本来、人間の営みはすべて「アート」と呼ばれるべきである。
アートをデザインよりも高尚なものと位置づけるその態度が「ボサノバ」を産み出す根源になっている。
本来、人間のすべての営みを指すはずだった「アート」という言葉を、大層なものにまつりあげたために、
ボサノバがノサバルことになった。

では、「アート史を背負って、今の時代に責任をもっているアーティスト」のことを何と呼べばいいのか?
彼らには「アーティスト」とは別の呼び方が必要だ。
たとえばそれは「メタ・アーティスト」とでも呼べばいい。
これで本来の「人間のすべての営み」としてのアートのひとつとしてボサノバもアーティストであると
言えるし、ちゃんとマジメにやっているメタ・アーティストと混同されることもなくなる。

とにかく、ボサノバをアートとしている今のままではあまりに恥ずかしい。

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myinnerasia at 06:36│ゲスでヤンス 
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