2016年05月26日

筒井康隆については語ってはならない

筒井康隆について語ることは危険だ。
特にそんなにたくさん読んだわけでもない僕なんかがヘタなことを言おうものなら、本物の
ツツイストたちにどんなことを言われるかわからない。
先に白状しておくが、僕は筒井康隆をそんなに読んだわけではない。

ただ言えることは、ツツイストたちも僕も、筒井康隆について語ってはならない、ということだ。
語ってはならない、という以前にその構造上、語ることが不可能である。

筒井康隆について語ることは、次の例に似ている。
僕たちプログラマーの中では何らかのかたちで普通に関わることになる"GNU"というプロジェクトがある。
このGNUというプロジェクト名は何の頭文字を取ったものか、というと、、、

 GNU is Not Unix.

である。
ではこの文の主語である"GNU"とは?と考えると、、、

  GNU(GNU is Not Unix) is Not Unix.
  GNU(GNU(GNU is Not Unix) is Not Unix) is Not Unix.
  GNU(GNU(GNU(GNU is Not Unix) is Not Unix) is Not Unix) is Not Unix.

  ...

となり、無限地獄に陥ることになる。
"G"が何の頭文字なのかはわからない。

筒井康隆について語ることは、これと同じだ。

筒井康隆は、「着想の技術」の中で、小説の虚構性について徹底的に分析している。
「虚構」をテーマにしてきた筒井康隆にとって、それを分析したものを発表する行為自体の
メタフィクション性について語ることは、上記の理由のとおり不可能である。
ただ、「虚構」について深く考えようと思うのであれば、たとえば唯野教授の授業を
受けているつもりで現代思想を学ぼう、というつもりで「文学部唯野教授」を読む、、というものと
同じ態度で、「着想の技術」 を読んでみることはアリ。

そういう読み方が正しい。

「虚構」というテーマは、筒井康隆やその他のメタ・フィクション文学だけのものではなく、
現代において作品を創るときには外せないテーマのはずで、90年代あたりの現代アートでも
そこが一番のテーマであった。そして、一度それをテーマにしてしまうと、その無限地獄からは
逃れることはできなくなり、 未だに現代アートのテーマとして根底にあるものになっている。

、、、などと書いてみることも馬鹿げたことで、そもそも「アート」というもの自体が虚構であって、
その虚構性を暴いたのがマルセル・デュシャンであったとするなら、その虚構性を再構築しようと
する試みが90年代以降の現代アートの位置づけである。

僕が表したいなにものかについて、「ましてやアートでもないなにものか」 としか言いようがないのは、
その虚構性に気づかないままに飲み込まれ、その虚構の中で虚構性の再構築に加担している、
と思いたくない、という気持ちがあるからかも知れない。まだまだ未熟者だ。
その点、さすがに筒井康隆はそういうところはとっくに乗り越えたところから「着想の技術」を書いている。

やっぱり筒井康隆については語ってはならない。 


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