ゲスでヤンス

2016年06月15日



当時の小学生たちが憧れていた"かっこいい"サッカー選手がいくら「かっこ悪い」と言ったとしても、
なぜ、イジメがかっこ悪いのか、という理屈がよく分からない。
みんなが憧れている"かっこいい"サッカー選手が「かっこ悪い」というからかっこ悪いのか?
このCMを見る限りは、「理屈抜きでかっこ悪いものはかっこ悪いんだ」と言っているようにしか見えない。
そして、"かっこいい"サッカー選手は、とにかく理屈抜きでものを言いたがる傾向にある。
そしてその理屈抜きなところが、小学生たちにはたまらなくかっこいいのだと思う。
 
なので、理屈ばっかり言っているこのドジOLの僕なんかは、小学生から見たらかっこ良くない。
それでもなぜ、イジメはかっこ悪いのかをちゃんと語ってあげよう。

ひとことで言うと、イジメの本質は、いじめる側の「弱さ」にある。
その「弱さ」が誰の目にも明らかだからかっこ悪いのだ。
「弱さ」があること自体がかっこ悪いのではない。
自分の「弱さ」を充分自覚した上で、その「弱さ」と闘っている姿は美しく、かっこいいものだ。
そういうのじゃなくて、その「弱さ」を隠しながら、あるいは自分の弱さに無自覚なままに、虚勢として
いじめをすることがかっこ悪いのだ。

もうちょっと具体例を挙げよう。
いつの時代にも、「誰もが叩いてもいい人」というのがいる。"かっこいい"サッカー選手の反対側にいる人だ。
最近では舛添。ちょっと古くなるが、野々村議員、小保方、佐村河内、もっと古くは姉歯や村上ファンド。。。
これらの「悪いことをしてしまった人」を叩いたり、笑いものにすること。
それは公開処刑であり、イジメである。

悪いことをしたのだから、誰もが叩いてもいい。みんなで笑いものにしよう。こいつはみんながオチに
してもいい人ですよ。
確かに彼らは滑稽だ。
だが、その滑稽さを笑いものにする公開処刑、イジメは、そこにしかオチを見つけられない自らの「弱さ」に
基づいている。

それがありありと見えるから、かっこ悪い。 

こいつを笑いものにしておけば、みんな共感して笑ってくれるでゲスよ。
こいつを叩いても誰も文句を言ってこないでヤンス。 
ゲスでヤンス。 

かっこ悪い。 

myinnerasia at 06:06|Permalink

2016年06月04日

作品名が「無題」となっているものもまた苦悩系アートである。

(本当は自分の個人的な苦悩を描いたものでゲスが)鑑賞者の自由な解釈で作品を
観てもらいたいから作品名は「無題」でヤンス。って。。。

解釈を鑑賞者に委ねるのであれば、作品を鑑賞させる必要などない。
鑑賞者が解釈をして、どんな解釈も正解、というのはゲームではない。
アート鑑賞はゲームであるべきだ。
いや、ゲームでも、ましてやアートでもないなにものかであるべきだ。
だから「無題」という作品名はダメ。 

あるいは作品名としてではなく、本当に作品に名前がない場合は括弧書きで「(無題)」と
することになっているらしい。
アート、アート作品、アート作品に名前を付けること。考えてみればこれらはすべて虚構で、
特に「アート作品に名前を付ける」という制度に従わない、という「(無題)」は、「無題」と
しながらも「無題」とい名前を付けることでそこに意味を持たせようとしているいやらしさ
よりかはましである。

だが「(無題)」であっても、それをアートという制度からは抜け出せないまま、ただ作品に
名前を付ける、という制度から抜け出せただけのものにすぎない。

「無題」という作品名に括弧書きを加えるのであれば、「無題(笑)」が一番正しい。
 

myinnerasia at 06:16|Permalink

2016年06月03日

特に美大の卒業制作展や、高校の文化祭での美術部の展示に多いと思う。
苦悩系アート。
個人的な苦悩をアートにしました、というやつ。
暗くて、閉鎖的で、ひとりよがりで。
それらしいタイトルがついていたり。

表現することでその苦悩から逃れようとしているのが見えるからいやらしい。
それを「アート作品」と名乗って高尚なものにしているのがいやらしい。
現代的なテーマとはかけ離れたところで個人的な問題だけを扱っている無責任さ。

苦悩系アートなんか、所詮ゲスでヤンスなものである。
一種のボサノバである。

「私のこの苦しみを作品にしたでゲスよ。」 
 

myinnerasia at 06:05|Permalink

2016年05月30日

意外に思われるのだが、僕はあまりゲームをしない。 
昔、プレステのあるゲームにはまろうとしてみたのだが、そのゲームは新しいバージョンが出るたびに
どんどんすごいCGになっていって、誰もが「おお!すごい!リアル!」などと喜んでいたものだが、僕は
それを全然リアルであるとは感じられず、ゲーム自体のおもしろさもどんどんなくなっていったように
感じた。そしてそのすごいCGのゲームに追従するように他のゲームもどんどんCGに力を入れるよう
になり、ゲーム自体のおもしろさよりも画のすごさを競うようになっていった。

そこで僕は完全に醒めてしまった。

「リアルであること」とは、CGで描いた世界が実際の世界にどれだけ似ているか、ということではない。
むしろ現実の世界には見えないものから脳の中に虚像を描く鑑賞者(=ゲームをする人)の行為そのもの
こそがリアルなのだ。
つまり、リアルと虚構は同義である。 

小説を読んでいて、その描写の巧みさにどんどんのめり込んでいるうちに、文字を追っているだけ
なのに、頭の中に情景が浮かぶこと。
木片に文字が書かれただけの駒を武将と見立てて戦略を立てること。
画面が荒く、白黒の古い映画を見て、物語に引きこまれていくこと。

画素数が爆発的に増えていくことでリアルを追求する、という現代の方向はあきらかに間違っている。
そんなところにはリアルはない。ただそれを開発している技術者の興味と意地を満たしているだけである。

「4Kの次は8Kでヤンスよ。いっひっひ」

技術が数字を追うようになったら、そこには絶望しかない。 

myinnerasia at 05:59|Permalink

2016年05月23日

世の中では「アート=オシャレ」という認識がかなり浸透している。まるでアーティストが、
あるいは何らかのかたちでアートに関わっている人が、オシャレな人、という認識をされるようでる。

あるいはよく言われる「クリエイター」という職業。
僕は未だにクリエイターと呼ばれる人たちが何を創る仕事をしているのかわかっていないのだが、
どうやらクリエイターもアーティストらしい。そしてオシャレだそうだ。

知り合いが結構いたりするので実例を挙げづらいのだが、「オシャレなアート」と呼ばれるもの、
あるいはそういう作品には、だいたい時代への責任というものが感じられない。

ただ、シュッとしている。

そして、そういうものが置かれているところではボサノバが流れている。

だから、そういう作品群のことを「ボサノバ」と呼ぼう。

時代に責任を持たず、ただシュッとしていてオシャレなアート(笑)。
一方で、アート史を背負って今の時代にあるべきアートについてマジメに考えているアーティストもいる。
どちらも「アーティスト」と呼ばれる。

ボサノバの作品から何かを読み取ろうとすることは不可能である。
なぜなら、その作品にはこちらが読み取ろうとするレベルでの意図は含まれておらず、ただシュッとする
こと、インテリアをオシャレな空間にすること、「カッコイイ」と感じさせることがその意図のメインだからだ。
なので、そういうものは世界のアートシーンで語られることはなく、せいぜい個人のインテリアの一部として
活躍するのみである。

そして、これらボサノバは言うまでもなくゲスでヤンスのひとつの形である。
それは、これらの作品が以下のような会話の中で生まれてくるからだ。

「この絵はもうちょっと色を浅くしたほうがオサレになるでゲス。」
「ここにこういう文字を入れといたでヤンス。もちろんヘルベチカでゲス。ひっひっひっ」
「名前はフランス語っぽい響きがオサレでゲス。ラ・なんとかにするでヤンス。」

ところで、世の中でよく議論されるバカげたテーマに「アートとデザインの違いは何か?」がある。
アート側の人間の優越感とデザイン側の人間の劣等感の対立。
だがここでは、「ボサノバ=デザイン」と言いたいわけではない。

むしろ逆だ。

本来、人間の営みはすべて「アート」と呼ばれるべきである。
アートをデザインよりも高尚なものと位置づけるその態度が「ボサノバ」を産み出す根源になっている。
本来、人間のすべての営みを指すはずだった「アート」という言葉を、大層なものにまつりあげたために、
ボサノバがノサバルことになった。

では、「アート史を背負って、今の時代に責任をもっているアーティスト」のことを何と呼べばいいのか?
彼らには「アーティスト」とは別の呼び方が必要だ。
たとえばそれは「メタ・アーティスト」とでも呼べばいい。
これで本来の「人間のすべての営み」としてのアートのひとつとしてボサノバもアーティストであると
言えるし、ちゃんとマジメにやっているメタ・アーティストと混同されることもなくなる。

とにかく、ボサノバをアートとしている今のままではあまりに恥ずかしい。

myinnerasia at 06:36|Permalink