ピキピキ
2016年05月29日
Dismalandはバンクシーが2015年に5週間だけの期間限定でイギリスでやっていたテーマパークだ。
僕は幸いなことにこの期間中にオランダに行っていたので、ちょっと足を伸ばして一泊二日で行ってきた。
この名前はもちろんディズニーランドをもじったものだが、"dismal"という英単語は"憂鬱"という意味らしく、
その内容もディズニーランドを徹底的に皮肉ったものだった。
そして、(本家のディズニーランドと同じく)、徹底的に虚構を作り上げている。
まず、インターネットでチケットを予約するのだが、これがかなりの人気のうえ、何日かに一度(何日だった
かは失念。。。)の決められた時間しかチケットの販売がないので、かなりの争奪戦になる。
さらに、そのチケット販売サイトからチケットを買う方法が不案内すぎてわかりづらい。
これは全部わざとやっていることだと思われる。テーマの"憂鬱"はもうチケット争奪戦から始まっている。
開催されていたのは、ロンドンから特急電車で2時間ぐらいかかるウェストンスーパーメアという小さな
街なのだが、駅に着いても何の表示もない。普通、こういう催し物は大々的に案内表示などがある、と
思うのだが、そこも当然dismal。
地面に下記のような表示だけがあったとさ。
そして到着。
そこには当日券待ちの長い列が。4時間待ちとのこと。
僕はインターネットで憂鬱な思いをしながらGETした前売りチケットがあったので、
その長い列とは違う、方へ。前売りチケットは入場日時が決められている。
前売りチケットの入り口にもその入場時間待ちの列があることはあるのだが、そんなに並ぶ
はずはない。
。。。はずなのに、なぜかこちら側だけ、行列用のレーンがあり、しかも無駄に長い。
前売りチケットで来た人は、誰も並んでいないこのレーンを延々と歩かされる。なぜかみんな
ニヤニヤと笑いながらなのだが。
肝心の中身については、、、バンクシーやダミアンハースとなどの現代アート好きには
たまらない内容だった。
ただ、そこに展示されている作品よりも、このDismaland全体が作り上げている虚構が
なんとも面白かった。 全てにおいて徹底的。
その徹底している度合いは本家ディズニーランドに負けない。
ミッキーマウスのような耳を付けた係員は皆憂鬱な顔をしていて、トイレはどこかと聞いても
教えてくれない。
アトラクションはどれも古く薄汚く見えるように作られている。
ビーチやプールサイドにあるような折りたたみベッドがところどころに置かれているのだが、
陽に焼けて色あせている。
館内にずっと流れ続ける古臭い音のハワイアン。時々そのハワイアンがブチッと止められて、
子供の声で館内アナウンスのようなものが流れるのだが、それをよく聞いてみると、
ジェニー・ホルツァーっぽいことを言っている。(後で調べたら、やっぱりジェニー・ホルツァー
だったようだ。オレすげえ)
それも時々は館内放送が始まるようにハワイアンが途切れてブチッとマイクのノイズがあるの
だが、何事もなかったのようにまたハワイアンに戻ったり。これはあるあるネタっぽかった。
とにかく全体で憂鬱をテーマに虚構を作り上げている、ということと、本家ディズニーランドを
徹底的に皮肉っている、ということで、その虚構性を笑っている、という二重構造になっていた。
最後に出口のところには、こんな皮肉が。。。(「出口はおみやげ売り場を通った向こう側」)
最後まで徹底している。
myinnerasia at 09:02|Permalink
2016年05月27日
ジョージ・オーウェル「1984」について、それを全体主義の悪夢を描いている、とだけ捉えること
は明らかに間違っている。それは表面的な読書であって、この小説のおもしろさが全然わかっていない。
1984は、文学でもなく、ゲームでもなく、ましてやアートでもないなにものか、である。
ニュースピークという新言語。ダブルシンクという思考法。オセアニア、ユーラシア、イースタシアという
大国がある世界。
確かにその舞台であるオセアニアは、ビッグブラザーに独裁され、国民の思想を徹底的に操作する
ための恐怖政治が描かれているが、これは恐怖政治の恐怖そのものを描いているのではなく、
恐怖政治のために虚構が積み重ねられていく、という、現代の文学やアートでもテーマとして成立しうる
問題がテーマになっている、ということに気づく。
まず、オセアニアは本当にユーラシアと戦争をしているのかどうかがわからない。国民には毎日その
戦果が放送され、国民は各地での勝利に狂喜する(ふりをする)のだが、戦闘のシーンはない。
また、反革命分子の指導者として、国全体の敵として宣伝されているゴールドシュタインが本当に
実在するのかもわからない。
それよりも何よりも、オセアニアの指導者(独裁者)、ビッグブラザーが本当に実在するのかどうか
さえ分からない。街中に貼られている「BIGBROTHER IS WATCHING YOU(ビッグブラザーは
いつもあなたを見ている)」のさえ、本当なのかどうかはわからない。
すべてが虚構の上に成り立っている。
つまりこの物語は、読者に虚構としての作品を展開するだけではなく、その物語中の登場人物(国民)
たちにも虚構を布いている。
虚構によって虚構を描く。
ピキピキくる作品である。
は明らかに間違っている。それは表面的な読書であって、この小説のおもしろさが全然わかっていない。
1984は、文学でもなく、ゲームでもなく、ましてやアートでもないなにものか、である。
ニュースピークという新言語。ダブルシンクという思考法。オセアニア、ユーラシア、イースタシアという
大国がある世界。
確かにその舞台であるオセアニアは、ビッグブラザーに独裁され、国民の思想を徹底的に操作する
ための恐怖政治が描かれているが、これは恐怖政治の恐怖そのものを描いているのではなく、
恐怖政治のために虚構が積み重ねられていく、という、現代の文学やアートでもテーマとして成立しうる
問題がテーマになっている、ということに気づく。
まず、オセアニアは本当にユーラシアと戦争をしているのかどうかがわからない。国民には毎日その
戦果が放送され、国民は各地での勝利に狂喜する(ふりをする)のだが、戦闘のシーンはない。
また、反革命分子の指導者として、国全体の敵として宣伝されているゴールドシュタインが本当に
実在するのかもわからない。
それよりも何よりも、オセアニアの指導者(独裁者)、ビッグブラザーが本当に実在するのかどうか
さえ分からない。街中に貼られている「BIGBROTHER IS WATCHING YOU(ビッグブラザーは
いつもあなたを見ている)」のさえ、本当なのかどうかはわからない。
すべてが虚構の上に成り立っている。
つまりこの物語は、読者に虚構としての作品を展開するだけではなく、その物語中の登場人物(国民)
たちにも虚構を布いている。
虚構によって虚構を描く。
ピキピキくる作品である。
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2016年05月26日
筒井康隆について語ることは危険だ。
特にそんなにたくさん読んだわけでもない僕なんかがヘタなことを言おうものなら、本物の
ツツイストたちにどんなことを言われるかわからない。
先に白状しておくが、僕は筒井康隆をそんなに読んだわけではない。
ただ言えることは、ツツイストたちも僕も、筒井康隆について語ってはならない、ということだ。
語ってはならない、という以前にその構造上、語ることが不可能である。
筒井康隆について語ることは、次の例に似ている。
僕たちプログラマーの中では何らかのかたちで普通に関わることになる"GNU"というプロジェクトがある。
このGNUというプロジェクト名は何の頭文字を取ったものか、というと、、、
GNU is Not Unix.
である。
ではこの文の主語である"GNU"とは?と考えると、、、
GNU(GNU is Not Unix) is Not Unix.
GNU(GNU(GNU is Not Unix) is Not Unix) is Not Unix.
GNU(GNU(GNU(GNU is Not Unix) is Not Unix) is Not Unix) is Not Unix.
...
となり、無限地獄に陥ることになる。
"G"が何の頭文字なのかはわからない。
筒井康隆について語ることは、これと同じだ。
筒井康隆は、「着想の技術」の中で、小説の虚構性について徹底的に分析している。
「虚構」をテーマにしてきた筒井康隆にとって、それを分析したものを発表する行為自体の
メタフィクション性について語ることは、上記の理由のとおり不可能である。
ただ、「虚構」について深く考えようと思うのであれば、たとえば唯野教授の授業を
受けているつもりで現代思想を学ぼう、というつもりで「文学部唯野教授」を読む、、というものと
同じ態度で、「着想の技術」 を読んでみることはアリ。
そういう読み方が正しい。
「虚構」というテーマは、筒井康隆やその他のメタ・フィクション文学だけのものではなく、
現代において作品を創るときには外せないテーマのはずで、90年代あたりの現代アートでも
そこが一番のテーマであった。そして、一度それをテーマにしてしまうと、その無限地獄からは
逃れることはできなくなり、 未だに現代アートのテーマとして根底にあるものになっている。
、、、などと書いてみることも馬鹿げたことで、そもそも「アート」というもの自体が虚構であって、
その虚構性を暴いたのがマルセル・デュシャンであったとするなら、その虚構性を再構築しようと
する試みが90年代以降の現代アートの位置づけである。
僕が表したいなにものかについて、「ましてやアートでもないなにものか」 としか言いようがないのは、
その虚構性に気づかないままに飲み込まれ、その虚構の中で虚構性の再構築に加担している、
と思いたくない、という気持ちがあるからかも知れない。まだまだ未熟者だ。
その点、さすがに筒井康隆はそういうところはとっくに乗り越えたところから「着想の技術」を書いている。
やっぱり筒井康隆については語ってはならない。
特にそんなにたくさん読んだわけでもない僕なんかがヘタなことを言おうものなら、本物の
ツツイストたちにどんなことを言われるかわからない。
先に白状しておくが、僕は筒井康隆をそんなに読んだわけではない。
ただ言えることは、ツツイストたちも僕も、筒井康隆について語ってはならない、ということだ。
語ってはならない、という以前にその構造上、語ることが不可能である。
筒井康隆について語ることは、次の例に似ている。
僕たちプログラマーの中では何らかのかたちで普通に関わることになる"GNU"というプロジェクトがある。
このGNUというプロジェクト名は何の頭文字を取ったものか、というと、、、
GNU is Not Unix.
である。
ではこの文の主語である"GNU"とは?と考えると、、、
GNU(GNU is Not Unix) is Not Unix.
GNU(GNU(GNU is Not Unix) is Not Unix) is Not Unix.
GNU(GNU(GNU(GNU is Not Unix) is Not Unix) is Not Unix) is Not Unix.
...
となり、無限地獄に陥ることになる。
"G"が何の頭文字なのかはわからない。
筒井康隆について語ることは、これと同じだ。
筒井康隆は、「着想の技術」の中で、小説の虚構性について徹底的に分析している。
「虚構」をテーマにしてきた筒井康隆にとって、それを分析したものを発表する行為自体の
メタフィクション性について語ることは、上記の理由のとおり不可能である。
ただ、「虚構」について深く考えようと思うのであれば、たとえば唯野教授の授業を
受けているつもりで現代思想を学ぼう、というつもりで「文学部唯野教授」を読む、、というものと
同じ態度で、「着想の技術」 を読んでみることはアリ。
そういう読み方が正しい。
「虚構」というテーマは、筒井康隆やその他のメタ・フィクション文学だけのものではなく、
現代において作品を創るときには外せないテーマのはずで、90年代あたりの現代アートでも
そこが一番のテーマであった。そして、一度それをテーマにしてしまうと、その無限地獄からは
逃れることはできなくなり、 未だに現代アートのテーマとして根底にあるものになっている。
、、、などと書いてみることも馬鹿げたことで、そもそも「アート」というもの自体が虚構であって、
その虚構性を暴いたのがマルセル・デュシャンであったとするなら、その虚構性を再構築しようと
する試みが90年代以降の現代アートの位置づけである。
僕が表したいなにものかについて、「ましてやアートでもないなにものか」 としか言いようがないのは、
その虚構性に気づかないままに飲み込まれ、その虚構の中で虚構性の再構築に加担している、
と思いたくない、という気持ちがあるからかも知れない。まだまだ未熟者だ。
その点、さすがに筒井康隆はそういうところはとっくに乗り越えたところから「着想の技術」を書いている。
やっぱり筒井康隆については語ってはならない。
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2016年05月19日
ツインピークスについて、それを単にある、かつて大ヒットしたドラマである、とだけ
考えるべきではない。
それはゲームのようなものであり、アートのようでもありながら、そのいずれでもない、
としか言いようのないある現象であった。
ツインピークスブームをリアルタイムで味わうことができた僕は、YMOを生で感じられる
時代の中で時間を共有できた、ということと同じぐらい幸せだと思う。
ツインピークスが単なるドラマとしては考えられない理由のひとつめとして、その展開が
あまりにもぶっとびすぎている、ということが挙げられる。
ドラマや映画について、よく「展開が読めない」ということがその作品のおもしろさの
ひとつとして語られることはよくあることだが、ツインピークスについてはそういうレベルでは
ない。言わば、ドラマとして成立し得ないほどにぶっとんでいる、とでも言うべきか。
まず、登場人物が多すぎる。登場人物が数十人出てくるドラマというのはそうない。
その登場人物の多さのために、ドラマを見始めるころは、関係図を描きながら見ないことには
話についていけなくなる。
「登場人物が多すぎる」ということがドラマのおもしろさのひとつになっているとは、明らかにおかしい。
物語の前半の主要なテーマである、「誰がローラパーマーを殺したか?」という謎は、
ツインピークスを観ているすべての人にとっての最大の関心事で、ここでも「登場人物が多すぎる」
ということがおもしろさに繋がっている。
「誰がローラパーマーを殺したか?」についての候補が無数にあるということ。
そのために、ツインピークスにはまっている者どうしの間で、「オレは◯◯だと思う。なぜなら。。。」
という会話が、ドラマを離れたところで展開される別の楽しみであった。
あちこちで「誰がローラパーマーを殺したと思うか?」というアンケートがなされ、登場人物が
ずらっとリストされ、チェックボックスがついたTシャツ(自分が思う人物に自分でチェックを入れる)や、
「ローラパーマーを殺したのは私だ」、「私は誰がローラパーマーを殺したかを知っている」と
書かれたTシャツが流行った。
そしてドラマ中最大の謎として引っ張られた「誰がローラパーマーを殺したか?」という謎が解かれた
後の展開がひどすぎる。
小さな田舎町で起こった一件の殺人事件が町じゅうが大騒ぎになり、観ている者にとっても最大の
関心事になり、Tシャツまで出てきたほどであったにもかかわらず、その謎が解かれたあと、数々の
他の殺人事件が起こるのであるが、それらはあまりにもあっさりと流されていく。
そのアンバランスさ。
ひどい。
また、他のドラマや映画と同じように、物語中には数々の伏線が散りばめられている。
ドラマの一話の最後にその伏線が意味ありげにアップで映しだされ、「続きは次回」という感じで
引っ張られるわけだが、その伏線が以後一切出てこない、という裏切りは何度もある。
ひどい。
ツインピークス、およびそのぶっとんだ展開について「ひどい」と語るときには、すでにそのひどさに
自分が巻き込まれているということを自覚するべきであり、その状態はあきらかに「ピキピキきている」
というべきものである。
ツインピキ。。。いや、なんでもない。
ツインピークスの魅力としてそのぶっとんだ展開以外に挙げるとすれば、「全体的な空気感」とでも
いうべきなにものか、があるだろう。
毎話ドラマの間じゅう流れている低く暗い音楽。
全体的に薄暗い画面。
無数の不気味な登場人物。
これら全体があの独特な空気感を醸し出している。
物語の中で、主人公のクーパーがコーヒーを美味そうに飲んだり、チェリーパイを美味そうに食べる
シーンが何度もあるのだが、観ていると本当にチェリーパイを食べたくなる。
ここで食べているものがチェリーパイである、ということも実はこの空気感を醸しだすのに役立っている。
チェリーパイの毒々しい甘さがここでは重要で、たとえばもしこれがイチゴのショートケーキであっては
ならない。
ツインピークスが単に大ヒットしたドラマである、という以上のあるなにものかである、ということの
もうひとつに、その「立体的な展開」が挙げられる。
先ほど挙げた、「誰がローラパーマーを殺したか?」Tシャツはその「立体的な展開」のひとつである。
ドラマをはみ出して展開していく例としてもうひとつ、「誰がローラパーマーを殺したか?」という
謎解きの中で重要な役割を果たす、ローラパーマーの日記がある。
ローラが遺した日記が死後に見つかるのであるが、その中に重要なヒントが隠されている。
ツインピークスにはまっている誰もが、その日記の中身を見たい!と思いながらドラマにのめり込んでいく
わけであるが、なんとその「ローラパーマーの日記」は当時、本として出版されたのである。
また上記で挙げたように、ツインピークスの中では、物語の展開に全く関係のないところで、コーヒーを
美味そうに飲むシーンが何度もあるわけだが、これは缶コーヒーのCMになっていたりする。
そのCMは、ツインピークスに出演していた本当の俳優たちによってツインピークスのパロディをやって
いるものであったが、そこには実際にツインピークスを観ている者にしかわからないジョークが
散りばめられており、ファンにはたまらないCMになっている、という意味においてもCMとして
成功しているわけであるが、このことはまた、ツインピークスというドラマが、単なるドラマとしてだけでは
なく、そのCMが分かる人どうしのコミュニティーのようなものを形成していたとも言える。
ツインピークスはそのぶっとんだ展開、独特の空気感、立体的な展開という、それまでのドラマには
なかった、単にドラマでもなく、ゲームでもない、ましてやアートでもないなにものか、である。
考えるべきではない。
それはゲームのようなものであり、アートのようでもありながら、そのいずれでもない、
としか言いようのないある現象であった。
ツインピークスブームをリアルタイムで味わうことができた僕は、YMOを生で感じられる
時代の中で時間を共有できた、ということと同じぐらい幸せだと思う。
ツインピークスが単なるドラマとしては考えられない理由のひとつめとして、その展開が
あまりにもぶっとびすぎている、ということが挙げられる。
ドラマや映画について、よく「展開が読めない」ということがその作品のおもしろさの
ひとつとして語られることはよくあることだが、ツインピークスについてはそういうレベルでは
ない。言わば、ドラマとして成立し得ないほどにぶっとんでいる、とでも言うべきか。
まず、登場人物が多すぎる。登場人物が数十人出てくるドラマというのはそうない。
その登場人物の多さのために、ドラマを見始めるころは、関係図を描きながら見ないことには
話についていけなくなる。
「登場人物が多すぎる」ということがドラマのおもしろさのひとつになっているとは、明らかにおかしい。
物語の前半の主要なテーマである、「誰がローラパーマーを殺したか?」という謎は、
ツインピークスを観ているすべての人にとっての最大の関心事で、ここでも「登場人物が多すぎる」
ということがおもしろさに繋がっている。
「誰がローラパーマーを殺したか?」についての候補が無数にあるということ。
そのために、ツインピークスにはまっている者どうしの間で、「オレは◯◯だと思う。なぜなら。。。」
という会話が、ドラマを離れたところで展開される別の楽しみであった。
あちこちで「誰がローラパーマーを殺したと思うか?」というアンケートがなされ、登場人物が
ずらっとリストされ、チェックボックスがついたTシャツ(自分が思う人物に自分でチェックを入れる)や、
「ローラパーマーを殺したのは私だ」、「私は誰がローラパーマーを殺したかを知っている」と
書かれたTシャツが流行った。
そしてドラマ中最大の謎として引っ張られた「誰がローラパーマーを殺したか?」という謎が解かれた
後の展開がひどすぎる。
小さな田舎町で起こった一件の殺人事件が町じゅうが大騒ぎになり、観ている者にとっても最大の
関心事になり、Tシャツまで出てきたほどであったにもかかわらず、その謎が解かれたあと、数々の
他の殺人事件が起こるのであるが、それらはあまりにもあっさりと流されていく。
そのアンバランスさ。
ひどい。
また、他のドラマや映画と同じように、物語中には数々の伏線が散りばめられている。
ドラマの一話の最後にその伏線が意味ありげにアップで映しだされ、「続きは次回」という感じで
引っ張られるわけだが、その伏線が以後一切出てこない、という裏切りは何度もある。
ひどい。
ツインピークス、およびそのぶっとんだ展開について「ひどい」と語るときには、すでにそのひどさに
自分が巻き込まれているということを自覚するべきであり、その状態はあきらかに「ピキピキきている」
というべきものである。
ツインピキ。。。いや、なんでもない。
ツインピークスの魅力としてそのぶっとんだ展開以外に挙げるとすれば、「全体的な空気感」とでも
いうべきなにものか、があるだろう。
毎話ドラマの間じゅう流れている低く暗い音楽。
全体的に薄暗い画面。
無数の不気味な登場人物。
これら全体があの独特な空気感を醸し出している。
物語の中で、主人公のクーパーがコーヒーを美味そうに飲んだり、チェリーパイを美味そうに食べる
シーンが何度もあるのだが、観ていると本当にチェリーパイを食べたくなる。
ここで食べているものがチェリーパイである、ということも実はこの空気感を醸しだすのに役立っている。
チェリーパイの毒々しい甘さがここでは重要で、たとえばもしこれがイチゴのショートケーキであっては
ならない。
ツインピークスが単に大ヒットしたドラマである、という以上のあるなにものかである、ということの
もうひとつに、その「立体的な展開」が挙げられる。
先ほど挙げた、「誰がローラパーマーを殺したか?」Tシャツはその「立体的な展開」のひとつである。
ドラマをはみ出して展開していく例としてもうひとつ、「誰がローラパーマーを殺したか?」という
謎解きの中で重要な役割を果たす、ローラパーマーの日記がある。
ローラが遺した日記が死後に見つかるのであるが、その中に重要なヒントが隠されている。
ツインピークスにはまっている誰もが、その日記の中身を見たい!と思いながらドラマにのめり込んでいく
わけであるが、なんとその「ローラパーマーの日記」は当時、本として出版されたのである。
また上記で挙げたように、ツインピークスの中では、物語の展開に全く関係のないところで、コーヒーを
美味そうに飲むシーンが何度もあるわけだが、これは缶コーヒーのCMになっていたりする。
そのCMは、ツインピークスに出演していた本当の俳優たちによってツインピークスのパロディをやって
いるものであったが、そこには実際にツインピークスを観ている者にしかわからないジョークが
散りばめられており、ファンにはたまらないCMになっている、という意味においてもCMとして
成功しているわけであるが、このことはまた、ツインピークスというドラマが、単なるドラマとしてだけでは
なく、そのCMが分かる人どうしのコミュニティーのようなものを形成していたとも言える。
ツインピークスはそのぶっとんだ展開、独特の空気感、立体的な展開という、それまでのドラマには
なかった、単にドラマでもなく、ゲームでもない、ましてやアートでもないなにものか、である。
myinnerasia at 05:32|Permalink
2016年05月18日
「ピキピキくるものをひとつ挙げよ」と言われたら(そんなこと言うヤツはいないけど)、
迷うことなくまず第一にYMOを挙げるだろう。
僕の世代は二つぐらい上のビートルズ世代がビートルズへの思い入れを熱く語ることに
憧れていたわけでもなく、ビートルズを聴いてみても、正直なところ何がいいのかよく
わからなかった。
当時は小学生だったから仕方がないのだろうけど。
でも、当時小学校5年生だった僕にも、YMOは衝撃だった。
ラジオが大好きだった僕は、ある日、”テクノポリス”を聴く。
いつも退屈な歌謡曲しか流れないいつものラジオで。
人間の声のようだけど、機械で作ったようにも聴こえる声で「おっぴにょー おっぴにょー」
というところから始まる謎の音楽(のようなもの)。何の予備知識もないまま初めて聴いた
"テクノポリス"は、小学校5年生には刺激的だった。
そのときラジオではYMOとは言わずに、 「イエローマジックオーケストラ」と紹介していたことを
覚えている。多分まだ"YMO"という略し方はその時にはなかったのかもしれない。
ピコピコと聴いたこともない電子音で奏でられる音楽を「オーケストラ」と呼ことも新鮮だった。
今になって思えばあれは、生まれて初めてピキピキくる感じを味わった瞬間だったのかもしれない。
それから僕は、イエローマジックオーケストラについて、色々と調べた。
まだ当然インターネットなんかない時代だったから、 調べる、という言葉の意味が今とは
大きく異なる。
メンバーが3人であるということ。
「おっぴにょー」というのは実は"トキオ"と言っている、ということ。 それはボコーダーという
機械を通した人間の声である、ということ。
ピコピコいっているのはシンセサイザーという楽器である、ということ。
日本よりも最初にヨーロッパやアメリカで流行って、それが日本に逆輸入されている、ということ。
おっぴにょーの他には、テレビゲームの音を音楽としていること。日本っぽい音、沖縄っぽい音、
中国っぽい音をまぜこぜにした音。
知れば知るほど何もかもが過激だった。
ヨーロッパのステージに中国の人民服を着て出ていたこと。
そのステージには大きなシンセサイザーとその技術者(松武秀樹)が出ていたこと。
男なのに化粧をしていること。
小学校5年生にかけられた魔法はどんどん少年を深みにはめていく。
やがて中学生になり、周りの同級生とは話が合うはずもなく、どんどんと魔法は深まっていく。
YMOにはいつも裏切られ続けた。
「BGM」が出たとき、それまでのピコピコ音とポップ・アートな感じを大きく裏切られた。
それまでとは大きく変わって、暗さが全面に出ている。
その次の「テクノデリック」は、一曲目は明るく、軽い感じがしたのだが、よく聴きこむと全体的に
重苦しさが漂っている。明るいはずなのに暗く重い。だけど無機的な。
YMOのせいで暗い中学生活3年間を送った少年はやがて高校生になる。
そこでYMOにはまたまた大きく裏切られることになる。
「浮気なぼくら」
憧れの坂本龍一とデビッド・ボウイが「戦場のメリークリスマス」に出た。その撮影のために丸坊主
になった坂本龍一は、 まだ丸坊主から伸びかけの中途半端な長さの髪のまま「浮気なぼくら」の
ジャケットに登場する。
「浮気なぼくら」
には大きく裏切られた。
周りの話が合わない同級生たちと何が一番話が合わなかったかというと、それは音楽である。
アイドルが歌う歌謡曲の全盛期に、僕だけがそれらを小バカにし、YMOのような暗い歌を聴く、
というのが自意識過剰な中学生のスノビズムだった。
その拠りどころのYMOがよりによって、「きゅんっ」である。
そのせいで僕の高校生活はおかしなものになってしまった。
自意識過剰で(わざと)暗く過ごした中学生活とは大きく変わって、はじけてしまった。
それまでの僕を見続けている人がいたとしたら、開き直ったように見えたことだろう。
まるで「浮気なぼくら」のジャケットで、丸坊主から伸びかけの髪のまま登場している坂本龍一のように。
それでも僕には、いつもいつも裏切り続けるYMO以上の刺激を得られるものがなかった。
あれから30年以上経った今になってもまだ、僕はYMOになりたいと心から思っている。YMOになるため
の方法を探し続けている。
あれから30年以上経った今になってもまだ、黄色い魔法はとけることなく。
迷うことなくまず第一にYMOを挙げるだろう。
僕の世代は二つぐらい上のビートルズ世代がビートルズへの思い入れを熱く語ることに
憧れていたわけでもなく、ビートルズを聴いてみても、正直なところ何がいいのかよく
わからなかった。
当時は小学生だったから仕方がないのだろうけど。
でも、当時小学校5年生だった僕にも、YMOは衝撃だった。
ラジオが大好きだった僕は、ある日、”テクノポリス”を聴く。
いつも退屈な歌謡曲しか流れないいつものラジオで。
人間の声のようだけど、機械で作ったようにも聴こえる声で「おっぴにょー おっぴにょー」
というところから始まる謎の音楽(のようなもの)。何の予備知識もないまま初めて聴いた
"テクノポリス"は、小学校5年生には刺激的だった。
そのときラジオではYMOとは言わずに、 「イエローマジックオーケストラ」と紹介していたことを
覚えている。多分まだ"YMO"という略し方はその時にはなかったのかもしれない。
ピコピコと聴いたこともない電子音で奏でられる音楽を「オーケストラ」と呼ことも新鮮だった。
今になって思えばあれは、生まれて初めてピキピキくる感じを味わった瞬間だったのかもしれない。
それから僕は、イエローマジックオーケストラについて、色々と調べた。
まだ当然インターネットなんかない時代だったから、 調べる、という言葉の意味が今とは
大きく異なる。
メンバーが3人であるということ。
「おっぴにょー」というのは実は"トキオ"と言っている、ということ。 それはボコーダーという
機械を通した人間の声である、ということ。
ピコピコいっているのはシンセサイザーという楽器である、ということ。
日本よりも最初にヨーロッパやアメリカで流行って、それが日本に逆輸入されている、ということ。
おっぴにょーの他には、テレビゲームの音を音楽としていること。日本っぽい音、沖縄っぽい音、
中国っぽい音をまぜこぜにした音。
知れば知るほど何もかもが過激だった。
ヨーロッパのステージに中国の人民服を着て出ていたこと。
そのステージには大きなシンセサイザーとその技術者(松武秀樹)が出ていたこと。
男なのに化粧をしていること。
小学校5年生にかけられた魔法はどんどん少年を深みにはめていく。
やがて中学生になり、周りの同級生とは話が合うはずもなく、どんどんと魔法は深まっていく。
YMOにはいつも裏切られ続けた。
「BGM」が出たとき、それまでのピコピコ音とポップ・アートな感じを大きく裏切られた。
それまでとは大きく変わって、暗さが全面に出ている。
その次の「テクノデリック」は、一曲目は明るく、軽い感じがしたのだが、よく聴きこむと全体的に
重苦しさが漂っている。明るいはずなのに暗く重い。だけど無機的な。
YMOのせいで暗い中学生活3年間を送った少年はやがて高校生になる。
そこでYMOにはまたまた大きく裏切られることになる。
「浮気なぼくら」
憧れの坂本龍一とデビッド・ボウイが「戦場のメリークリスマス」に出た。その撮影のために丸坊主
になった坂本龍一は、 まだ丸坊主から伸びかけの中途半端な長さの髪のまま「浮気なぼくら」の
ジャケットに登場する。
「浮気なぼくら」
には大きく裏切られた。
周りの話が合わない同級生たちと何が一番話が合わなかったかというと、それは音楽である。
アイドルが歌う歌謡曲の全盛期に、僕だけがそれらを小バカにし、YMOのような暗い歌を聴く、
というのが自意識過剰な中学生のスノビズムだった。
その拠りどころのYMOがよりによって、「きゅんっ」である。
そのせいで僕の高校生活はおかしなものになってしまった。
自意識過剰で(わざと)暗く過ごした中学生活とは大きく変わって、はじけてしまった。
それまでの僕を見続けている人がいたとしたら、開き直ったように見えたことだろう。
まるで「浮気なぼくら」のジャケットで、丸坊主から伸びかけの髪のまま登場している坂本龍一のように。
それでも僕には、いつもいつも裏切り続けるYMO以上の刺激を得られるものがなかった。
あれから30年以上経った今になってもまだ、僕はYMOになりたいと心から思っている。YMOになるため
の方法を探し続けている。
あれから30年以上経った今になってもまだ、黄色い魔法はとけることなく。
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