2016年07月16日
「ポスト・ポストモダン」なんて言うヤツのことは信用しなくていい
ティム・オライリーが提唱した「Web 2.0」という言葉が、その時代とそれからのテクノロジーを表す言葉としてバズワードになっていた時代、当時僕が勤めていた会社の社長が、社内向けの演説で、「うちはもうとっくにWeb 2.0なんか超えている。これからはWeb 3.0だ!」と言って鼓舞していた。
社長のその演説を聞いて、「やれやれ」と思っていた直後に、ティム・オライリーが何かのインタビューで、「『Web 3.0』なんて言葉を言うヤツのことは信用しなくていい」と言っていたのを見て大笑いした。
そもそもバズワードというものは営業用語、あるいはマーケティング用語とでも言うべきもので、ものの本質を見事に突いていると思えることはあまりない。
その本質について深く考えることもなく、そのバズワードを多用する人は下品であるが、そのバズワードを超えようとしてさらにヘンテコな言葉を作って虚勢を張っているようなヤツはさらに下品だ。というかただ低能なだけのゲスでヤンスだ。
建築批評家のある人が「これからは『ポスト・ポストモダン』だ」と言ったことがある。
「ポストモダン」という言葉は、その発祥が建築にある、と言われている。
モダニズム建築というものが、装飾や歴史的文脈を排除し、科学的な理念だけを根拠に形を構成していく、というものであったのに対し、ポストモダン建築は当初、そのアンチテーゼとして、より有機的な要素や歴史的な文脈を形にする、というものであった。
それがやがて思想・芸術などの分野に飛び火することで「ポストモダニズム」と同義になり、本来建築で使われていた意味からは乖離し、「文脈を外すこと」という意味に変わっていった。
ポストモダニズムの本質は「全肯定」にある、と言われる。
本来、建築が発祥だったはずの「ポストモダン」という言葉は、「ポストモダニズム」と同義になり、そしてその元々の意味さえも変わってしまったこと、こそがポストモダン的である。
本来の意味(=文脈)から外れてしまうこと、をも肯定すること。
そして「ポストモダニズム」と同義になったポストモダンは、ふたたび建築界に帰ってくることになる。
だが、里帰りしたポストモダンが、以前のものとは違ってしまっていることに気づかなかった建築界は、世間一般で使われている「ポストモダン」とは違う意味でその言葉を使うことでとり残されてしまう。
建築界にとっての「ポストモダン」は、ある時代を指す歴史用語であり、「モダンの次の時代」ぐらいの意味しかなかった。
ポストモダン(=ポストモダニズム)が全肯定のものである以上、建築界における「ポストモダン」という言葉の誤用も間違いではなくなる、ということになる。誤解、誤用もすべてポストモダンに取り込まれるべきものである。
ここでいつもの自己言及的な無限地獄が現れる。(GNU = GNU's Not Unix)
つまり、「ポストモダン」という言葉を無理矢理ある時代を指す歴史用語であるとするのであれば、それは一本の線上に流れる歴史の流れというものの終末の姿であり、そこで円環に入ったまま無限ループに陥っていることになる。
要するに「ポストモダン」という言葉が生まれてから20年以上経つが、時代は未だにポストモダンであるし、これからも永久にポストモダン時代なわけである。
ポストモダンが全肯定である以上、「これからは『ポスト・ポストモダン』だ」という発言も肯定されなければならない。
まず、「ポスト・ポストモダン」というもの自体は結局のところ「ポストモダン」に吸収されてしまう。
ポスト・ポストモダン=ポストモダン、ということである。
つまり、「これからは『ポスト・ポストモダン』だ」=「これからはポストモダンだ」ということになる。
そして、「これからは『ポスト・ポストモダン』だ」とわざわざ言っていることの滑稽さも(笑)いとして肯定するべきである。
要するに、「(笑)い」も「フィー」も「ポストモダン」と同義、ということになるのか?
でもやっぱり、「これからは『ポスト・ポストモダン』だ」なんて言っているヤツのことは信用したくない。
そもそもバズワードというものは営業用語、あるいはマーケティング用語とでも言うべきもので、ものの本質を見事に突いていると思えることはあまりない。
その本質について深く考えることもなく、そのバズワードを多用する人は下品であるが、そのバズワードを超えようとしてさらにヘンテコな言葉を作って虚勢を張っているようなヤツはさらに下品だ。というかただ低能なだけのゲスでヤンスだ。
建築批評家のある人が「これからは『ポスト・ポストモダン』だ」と言ったことがある。
「ポストモダン」という言葉は、その発祥が建築にある、と言われている。
モダニズム建築というものが、装飾や歴史的文脈を排除し、科学的な理念だけを根拠に形を構成していく、というものであったのに対し、ポストモダン建築は当初、そのアンチテーゼとして、より有機的な要素や歴史的な文脈を形にする、というものであった。
それがやがて思想・芸術などの分野に飛び火することで「ポストモダニズム」と同義になり、本来建築で使われていた意味からは乖離し、「文脈を外すこと」という意味に変わっていった。
ポストモダニズムの本質は「全肯定」にある、と言われる。
本来、建築が発祥だったはずの「ポストモダン」という言葉は、「ポストモダニズム」と同義になり、そしてその元々の意味さえも変わってしまったこと、こそがポストモダン的である。
本来の意味(=文脈)から外れてしまうこと、をも肯定すること。
そして「ポストモダニズム」と同義になったポストモダンは、ふたたび建築界に帰ってくることになる。
だが、里帰りしたポストモダンが、以前のものとは違ってしまっていることに気づかなかった建築界は、世間一般で使われている「ポストモダン」とは違う意味でその言葉を使うことでとり残されてしまう。
建築界にとっての「ポストモダン」は、ある時代を指す歴史用語であり、「モダンの次の時代」ぐらいの意味しかなかった。
ポストモダン(=ポストモダニズム)が全肯定のものである以上、建築界における「ポストモダン」という言葉の誤用も間違いではなくなる、ということになる。誤解、誤用もすべてポストモダンに取り込まれるべきものである。
ここでいつもの自己言及的な無限地獄が現れる。(GNU = GNU's Not Unix)
つまり、「ポストモダン」という言葉を無理矢理ある時代を指す歴史用語であるとするのであれば、それは一本の線上に流れる歴史の流れというものの終末の姿であり、そこで円環に入ったまま無限ループに陥っていることになる。
要するに「ポストモダン」という言葉が生まれてから20年以上経つが、時代は未だにポストモダンであるし、これからも永久にポストモダン時代なわけである。
ポストモダンが全肯定である以上、「これからは『ポスト・ポストモダン』だ」という発言も肯定されなければならない。
まず、「ポスト・ポストモダン」というもの自体は結局のところ「ポストモダン」に吸収されてしまう。
ポスト・ポストモダン=ポストモダン、ということである。
つまり、「これからは『ポスト・ポストモダン』だ」=「これからはポストモダンだ」ということになる。
そして、「これからは『ポスト・ポストモダン』だ」とわざわざ言っていることの滑稽さも(笑)いとして肯定するべきである。
要するに、「(笑)い」も「フィー」も「ポストモダン」と同義、ということになるのか?
でもやっぱり、「これからは『ポスト・ポストモダン』だ」なんて言っているヤツのことは信用したくない。
myinnerasia at 08:09│Comments(2)│ゲスでヤンス
この記事へのコメント
1. Posted by 金山 直志 2016年07月16日 09:26
勉強になりますね!
ポストモダンという言葉は聞いたことがあるものの、ここまでしっかり考えたことが無かったです。
見識の深さに感服しております。
ポストモダンという言葉は聞いたことがあるものの、ここまでしっかり考えたことが無かったです。
見識の深さに感服しております。
2. Posted by tesh 2016年07月25日 06:51
ありがとうございます。
僕の世代はちょうどポストモダンブームというものがあったので、それについて考えるチャンスに恵まれていました。
考えているうちにどんどん迷宮に突入するんですけどね。
僕の世代はちょうどポストモダンブームというものがあったので、それについて考えるチャンスに恵まれていました。
考えているうちにどんどん迷宮に突入するんですけどね。