人工生命こそが人工的に知性を作り出すものかもしれない、という話じゃないけど

2016年08月03日

とりあえずxとする

以前ここに書いた「隠喩としての高級言語」という言葉は、もちろん柄谷行人の「隠喩としての建築」をもじったものである。


低級言語によってよりプリミティヴなものを記述することでその細部については取りあえず考えないことにすることによって、より大局的なものごとを考えることができる。
たとえば「関西人は薄味好み」というときに、「関西」とはどこを指すのか、「関西人」とは関西で生まれ育った者のことかそれとも関西に住んでいる者のことか、薄味とは塩分の比率が、、、などという細かい定義は普通しない。

ここでの「関西人」や「薄味」というものは、ここではとりあえずxとしたもので、そのxというものの定義が崩れると、「関西人は薄味好み」という文自体も意味のないものになる。


あるいは数学は10進数という、人間の指の本数に基づいたものに基礎をおいており、そこからより複雑な問題をくみ上げていくことで体系を作り上げている。その基礎の部分が崩壊すれば、その体系自体も崩壊する、ということを書いたのが「隠喩としての建築」だった。

人間は、細部の詳細をとりあえずxとすることによって世界を認識しようとする。
そのxの積み上げによって、より複雑なものごとを組み上げている。

この「細部の詳細をとりあえずxとする」というものは、科学的に(還元主義的に?)ものごとを捉えるときに有効であるが、文化的な共通認識としてのxというものもある。あるいは「常識」とでも呼ぶべきものだ。

この文化的なxが共有できていない者どうしの会話では、まずxの定義を説明しないことには会話が成立しないことがある。とくに多様な文化が入り混じった国においては、xの定義抜きでは誤解が生じることがよくある。
だからアメリカ人との議論では「言わずもがな」が通用せず、日本人にとっては「それは説明しなくてもわかるだろう」というようなこともいちいち説明しなければならないことがよくある。

言い換えれば、日本語にはこのxがたくさんある(x, y, z, ....)ことが特徴なのかもしれない。
そしてそれは日本語の美しさにもつながっている。
さらには「見立て」に見られるような日本の文化の美しさに通じるものである。

「とりあえずxとする」と言った時に「そのxの定義は何か?」ということは野暮である。
だが、そこで語られていること(大局)がどう見ても論理的に破たんしているように見えるときにはそこでとりあえずxとしたものについて再定義することを検討することが重要である。

人工知能について言えば、それを研究している人たちが「知能」ということについての考察を抜きにして、その技術を応用することによって得られた成果ばかりに注目していることがとても気になる。
「知能とは何か」という問題をとりあえずxとすることでどんどん話が暴走してしまっている人工知能について、今一度そのxについて考察する、という視点こそが必要である。


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myinnerasia at 08:09│Comments(0)虚構 

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