我が内なるアジア
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ゲームでもなく、科学でもなく、ましてやアートでもないなにものかについて、好きなように書きます。
ja
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美しいコード
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昔は「プログラム」と呼んでいたものがいつのころからか「コード」というようになった。今でも「プログラム」という言葉は使われているが、「コード」と使い分けられていて、「プログラム」という場合はアルゴリズムから、それを実行した時のものまでをも含めて広い意味で使...
myinnerasia
2016-10-25T08:03:38+09:00
創ることについて
今でも「プログラム」という言葉は使われているが、「コード」と使い分けられていて、「プログラム」という場合はアルゴリズムから、それを実行した時のものまでをも含めて広い意味で使われているのに対し、「コード」はそのプログラムを表したテキストそのものを表しているように思う。
「コード」は「ソースコード」や「ソース」と呼ばれることもある。
つまりは「プログラム」にとっての「源」といういことだ。
演劇や映画にとっての台本。
建築にとっての設計図。
音楽にとっての楽譜。
といったところか。
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解釈は観る人に委ねます
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府中市美術館で行われた、横尾忠則の公開制作を観に行った。今見てみたら、もう5年前だったんだなあ。時蝿は矢を好む。公開制作では、僕が大好きな「Y字路」シリーズを何枚か描くところが見られた。あの名シリーズができるところに立ち会うことができて、なんとも至福の時を...
myinnerasia
2016-10-24T08:09:06+09:00
創ることについて
府中市美術館で行われた、横尾忠則の公開制作を観に行った。
今見てみたら、もう5年前だったんだなあ。時蝿は矢を好む。
公開制作では、僕が大好きな「Y字路」シリーズを何枚か描くところが見られた。あの名シリーズができるところに立ち会うことができて、なんとも至福の時を過ごせた。
そのY字路シリーズで描かれる家に、"450"という番地と思える数字を何度か描くことがあった。僕はすぐに「ヨコオ」の語呂合わせだと気づいて、そのユーモアにニヤッと笑ってしまったのだが、そのあとに"4503"とした時には本当に吹き出しそうになった。自分に"さん”をつけてるよー、と。
公開制作の最後に、横尾忠則本人からの挨拶と、観客からの質問に答える、というのがあった。サービス満点である。
そのときにある女性が、「ところどころに"450"という数字が出てきましたが、何か意味があるのですか?」と尋ねていた。僕は「おいおい、気づかない人がいるのかー」とびっくりしたのだが、そのときの横尾の回答がまた良かった。
「それはご想像にお任せします」
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ふたたび、説明不足であることについて
http://myinnerasia.livedoor.blog/archives/%E3%81%B5%E3%81%9F%E3%81%9F%E3%81%B3%E3%80%81%E8%AA%AC%E6%98%8E%E4%B8%8D%E8%B6%B3%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6
「表現することに逃げる」だとか、「身体感覚に訴えることに逃げる」という表現をしたので、まるで僕が(芸術的な)表現することそのものを否定しているように思われたかも知れないが、そういうことを言ったつもりはない。僕が言いたいことは、表現、および表現の手法に主眼...
myinnerasia
2016-10-23T10:07:45+09:00
創ることについて
「表現することに逃げる」だとか、「身体感覚に訴えることに逃げる」という表現をしたので、まるで僕が(芸術的な)表現することそのものを否定しているように思われたかも知れないが、そういうことを言ったつもりはない。
僕が言いたいことは、表現、および表現の手法に主眼を置きすぎて、本来そこで表現されるべきだったものがないがしろになる、ということが本末転倒である、ということだ。
これは今の第3次AIブームについても言えることである。
芸術作品だけではなく、なんらかの製品をも含めたある作品について、作者がその作品のコンセプトとして考えていることが、その作品を観るだけでわかる、ということはよくある。
これは「作品に語らせる」ことに成功した例だろう。
一方で僕は、何らかの作品が説明不足であることが逆育てゲーである、と書いたことがある。
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表現することに逃げるというどうしようもない弱さと強くあることについて
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ハリボテだとかつっかえ棒だとかにたとえて、僕が「創ることについて」思っていることをダラダラと書いてみたが、要するに僕は、「見せるために創る」ということにあまり興味がないんだな、と気づいた。「見せること」を第一に考えたものだからこそ、「ハリボテ」というテク...
myinnerasia
2016-10-22T11:55:39+09:00
創ることについて
ハリボテだとかつっかえ棒だとかにたとえて、僕が「創ることについて」思っていることをダラダラと書いてみたが、要するに僕は、「見せるために創る」ということにあまり興味がないんだな、と気づいた。
「見せること」を第一に考えたものだからこそ、「ハリボテ」というテクニックは効果的な技術であろうし、「見せること」に影響を与えないのであれば、その場しのぎの「つっかえ棒」は大した問題ではないのかもしれない。
でも僕がものを創るときには、「見せること」よりもまず、その作品の本質こそを大切にしたい、と考えている。
なので4Kだの8Kだのの超高精細画像にもあまり興味がないし、映像の凄さをウリにしている最近のゲームにもあまり興味はない。
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つっかえ棒
http://myinnerasia.livedoor.blog/archives/%E3%81%A4%E3%81%A3%E3%81%8B%E3%81%88%E6%A3%92
まだ木造住宅が主流だった僕の幼少期には、あちこちに「建て増し」した家があった。「建て増し」とは要するに、住んでいるうちに狭く感じるようになった家に、追加の部屋を作る、ということだ。もちろんほとんどの場合は大工さんに頼んでやってもらうのであろうが、素人が自...
myinnerasia
2016-10-21T08:03:13+09:00
創ることについて
「建て増し」とは要するに、住んでいるうちに狭く感じるようになった家に、追加の部屋を作る、ということだ。
もちろんほとんどの場合は大工さんに頼んでやってもらうのであろうが、素人が自分たちで建て増しする、ということもあった。
今思えば、建て増しというのはアジアそのもので、僕はそこに「都市は生命体である」と感じる。
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ハリボテ
http://myinnerasia.livedoor.blog/archives/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%9C%E3%83%86
ものを創るとき、それが他人に見せるためのものなのか、自分を高めるためのものなのかによって、出来上がりは同じに見えても、その作品の意味は大きく異なる。具体的には、、、たとえば3D空間を描くプログラミングの例で言えば、その3D空間の中で遠くに見える背景を細かく作...
myinnerasia
2016-10-20T08:05:42+09:00
創ることについて
具体的には、、、たとえば3D空間を描くプログラミングの例で言えば、その3D空間の中で遠くに見える背景を細かく作りこむのか、遠くに見えるものはそのプログラムの本質に関係ない、ということで画像を貼り付けて、遠くの景色に見えるようにするのか、ということがよくある。
プログラムの本質に関係ないので、効率化のために(=高速化のために)処理を省けるところは省く、という考え方は正しい。車のプロモーションのためのCG動画で、遠くにある木の葉っぱ一枚一枚まで描きこむことはナンセンスだ。
このときの遠くの木をあらかじめ用意しておいた木の画像を貼り付けることで処理を省くことは、要するに「ハリボテ」である。
「どう見られるか」に集中してものを創ること。
このハリボテは、いわゆる「作品」と呼ばれるものだけではなく、たとえばビジネス・シーンにおけるプレゼンテーションなど、いたるところに見られるものである。
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ニューラルネットの層とメタレベルの問題
http://myinnerasia.livedoor.blog/archives/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E5%B1%A4%E3%81%A8%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%83%AC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C
前回の続き。ニューラルネットが色々な人が書いた手書き文字を正しく認識する、ということは文字そのものを学習で覚えるというのではなくて、文字を一般化して学習する能力を持っている、ということである。このことに注目した僕は、一般的に「論理的である」と考えられてい...
myinnerasia
2016-10-19T08:08:14+09:00
コンピューター科学
前回の続き。
ニューラルネットが色々な人が書いた手書き文字を正しく認識する、ということは文字そのものを学習で覚えるというのではなくて、文字を一般化して学習する能力を持っている、ということである。
このことに注目した僕は、一般的に「論理的である」と考えられている「形態理論」、たとえば「左右対称性」などのような論理的に扱うことが考えられるような問題について、そこにゆらぎ、すなわちその論理性から外れる部分があったとしてもそれらを丸めて扱うことがニューラルネットには可能なのではないだろうか?という仮説に基づいて、それを僕は実験によって証明した。
結論としては、ニューラルネットは人間と同様、形態理論から少し外れる程度のゆらぎであれば、それらを含めて認識できるようになる、ということが分かった。
形そのものを扱う「手書き文字認識」にとって、 この「ゆらぎを含む形態理論認識」というものは、ひとつメタレベルの問題を扱っていることになるのではないだろうか?
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ゆらぎを許容する論理性
http://myinnerasia.livedoor.blog/archives/%E3%82%86%E3%82%89%E3%81%8E%E3%82%92%E8%A8%B1%E5%AE%B9%E3%81%99%E3%82%8B%E8%AB%96%E7%90%86%E6%80%A7
僕が20年ほど前にニューラルネットを研究していた時のこと。当時のぼくは建築を専攻していたのでそこでニューラルネットの研究をするというのもおかしなことだが、実際に当時の建築の分野でニューラルネットの研究をしている者は、僕の知る限り僕だけだった。建築学科でニ...
myinnerasia
2016-10-18T08:09:58+09:00
コンピューター科学
当時のぼくは建築を専攻していたのでそこでニューラルネットの研究をするというのもおかしなことだが、実際に当時の建築の分野でニューラルネットの研究をしている者は、僕の知る限り僕だけだった。
建築学科でニューラルネットを研究することにどういう意味があるのか?ということであるが、僕がやりたかったことは、建築の分野で当たり前のように考えられていて、建築学科の学生の基本として普通に教えられている「形態理論」というものが、実は論理的なものではなく、非常に直感に頼ったものなのではないか?という直感に基づく仮説についての考察だった。
そして「ニューラルネットは手書き文字を認識することができる」ということに注目した僕は、それを形態理論の認識に応用できないだろうか?ということを考えたわけだ。
このとき重要なことは、当時「形態理論」と呼ばれていたものが本当に論理的なものであるのであれば、コンピュータでそれを判定することは難しいものであるとは思わなかったが、そこに「あいまいさ」が加わると、普通のコンピューターのアルゴリズムではそれを判断することができなくなってしまう、ということだ。
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第3回AI美芸研を傍観して
http://myinnerasia.livedoor.blog/archives/%E7%AC%AC%EF%BC%93%E5%9B%9EAI%E7%BE%8E%E8%8A%B8%E7%A0%94%E3%82%92%E5%82%8D%E8%A6%B3%E3%81%97%E3%81%A6
第1回、第2回に続き、第3回人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)に参加してきた。「参加してきた」とは言うものの今回もこれまでと同様、野次馬以上恋人未満という立場で傍観してきた、という感じだ。今回は中ザワヒデキによる「循環史観とAI反芸術」という濃い〜い話から...
myinnerasia
2016-10-17T08:01:52+09:00
コンピューター科学
第1回、第2回に続き、第3回人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)に参加してきた。
「参加してきた」とは言うものの今回もこれまでと同様、野次馬以上恋人未満という立場で傍観してきた、という感じだ。
今回は中ザワヒデキによる「循環史観とAI反芸術」という濃い〜い話から始まり、続いて三宅陽一郎の「人工知能に、人工的な美を追求させることは如何にして可能か?」という、ゲーム制作の立場から見たAIについての話、そして斉藤環による「"意味"がわからないAIのために」という、精神科医の立場からのAI批判と続いた。
それぞれの細かい内容は省くとして、ここでは僕の感想をさらっと書いておこうと思う。
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TypingMonkee2:自動四字熟語 056−060
http://myinnerasia.livedoor.blog/archives/TypingMonkee2%EF%BC%9A%E8%87%AA%E5%8B%95%E5%9B%9B%E5%AD%97%E7%86%9F%E8%AA%9E%E3%80%80%EF%BC%90%EF%BC%95%EF%BC%96%E2%88%92%EF%BC%90%EF%BC%96%EF%BC%90
myinnerasia
2016-10-16T18:05:46+09:00
自動四字熟語
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